「3月31日解散断行」怪文書が出回った舞台裏 官邸のマッチポンプ説も

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 今年度予算が成立した3月28日、永田町に一通の怪文書が出回った。〈岸田文雄総理が3月31日に衆院を解散し、衆院選後の組閣で高市早苗経済安保担当相を切る〉との内容だ。

 政治部デスクが解説する。

「31日の解散はともかく、3月半ばから解散風が吹いていたのは事実です。岸田総理は戦後最悪といわれた日韓関係を首脳会談で正常化させ、直後にウクライナを極秘訪問。各社の世論調査も、軒並み内閣支持率が上昇に転じていましたね」

 とはいえ、依然、不支持は支持と拮抗。勇んで選挙に臨める状況にはなかった。

「統一地方選の後半戦が投開票される4月23日には、衆参両院の五つの補選もあります。当初、自民党は全勝を見込んでいましたが、後から複数の選挙区で苦戦との予想が。仮に負け越したら政権は窮地に陥ります。総理は、それなら解散し、衆院の4補選をなくしてしまおうと考えたとか」

サプライズ好きな一面

 自民党は衆院和歌山1区と山口2区、4区で候補者調整が難航していた。が、解散となれば補選自体が消滅する。勝算に乏しい“危ない橋”を渡る必要はなくなるというワケだ。加えて官邸にはこんな思惑もあったとされる。

「安倍晋三元総理が亡くなったとはいえ、安倍派が最大派閥であることに変わりはない。補選前に解散すれば、10増10減となる新区割りの関係で安倍さんの地盤だった山口4区は新3区に吸収される。安倍さんの正統な後継候補は出馬できなくなるから、派閥的にも早期解散が安倍派の力をそぐことにつながるとする声もありました」(岸田派幹部)

 しかも、解散権は総理の専権事項。決断すれば大義名分はなんとでもなる。

「平成29年9月、当時の安倍総理は北朝鮮のミサイル発射などを理由に“国難突破解散”に踏み切った。負けると目立つ補選を“飛ばす”のが目的なら、総理は党利党略との誹(そし)りを免れなかったでしょうが、最近は鈍感力が身上で、決断してもおかしくはなかった」(同)

 地味な印象の岸田総理だが、令和3年10月には総理の座に就くなり解散を表明した。昨夏には突然、内閣改造と党の役員人事を前倒しするなど、サプライズ好きな一面も持つ。与野党に解散への警戒感が広がったのも当然だった。

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