「亡くなったのが船頭でよかったと思うしか…」 保津川下り事故、遺族が明かした心境

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過去にはストライキも

 90年代まで船頭は世襲を前提としていたことからも分かるとおり、保津川下りの歴史は古い。木材運搬のための筏(いかだ)を流し始めたのは1200年前で、400年ほど前からは、今の遊覧船の形をした木船が物流の主役となったという。

 京都の歴史に詳しい郷土史家が解説する。

「1606年に豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が保津川を開削して以降、明治30年代までは丹波から京都への物資輸送のメインルートでしたが、鉄道開通で一気に衰退。観光客を乗せる川下りに活路を見いだしたのです」

 欧州の王族が京都を訪れた際、急流を達者に下る船頭の操舵技術に感服し、世界にその名が広まったとか。

「明治・大正期には上皇さまの母方祖父である久邇宮殿下や、皇太子時代の昭和天皇も乗船されました。戦後は阪急などの巨大資本が参入して船頭たちを管理下に置きましたが、待遇を巡りストライキが発生。阪急は撤退します」(同)

 そこで結成されたのが、今回の事故を受けて会見を開いた「保津川遊船企業組合」だった。

「船頭の報酬は歩合制ですが、それを取りまとめているのが組合です。月の総売り上げの半分強を船頭の取り分として、乗船回数に応じて皆へ平等に振り分ける。売り上げの残りは船の修繕などの経費に充てています。基本的に休むのは年末年始だけですが、冬場はお客さんも少なく報酬が減るので、トラック運転手や土木作業などのアルバイトに従事する船頭も多い」(先の船頭)

 桜が咲きほこり、ようやくシーズン本番を迎えた矢先の事故だったというのだ。

遺族は「一番の被害者はお客さんたち」

 船頭を務めた関さんの遺族にも話を聞いてみると、

「たしかに収入は一切なくなってしまいましたが、もし、お客さんが亡くなっていたら、もっと大変なことになっていた。刑事事件ですよ。だから、僕たちは亡くなったのは船頭でまだよかったと思うしかないんです。彼は死んだけど、僕らは被害者ではなく加害者側。一番の被害者はお客さんたちですから……」

 少なくとも国の運輸安全委員会が行っている事故調査の結果が出るまでは、運休が続くと見られる保津川下り。度重なる困難を乗り越え、伝統を守ってきた船頭たちの苦悩は絶えない。

週刊新潮 2023年4月13日号掲載

ワイド特集「激流の彼方に」より

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