【どうする家康】歴史上の足利義昭は古田新太のようなバカ殿ではない…信長との“本当の関係”は?
信長とは補完し合う関係
信長は永禄13年(1570)1月、いわゆる「五ヶ条の条書」を義昭に渡している。そこで信長は、義昭が各地に命令する際は自分の了承を得ろ、これまでに義昭が出した命令はいったん破棄しろ、朝廷への務めを疎かにするな、などと「命じて」いるように見える。
このため義昭は信長の傀儡だという見解が生じたのだが、これも義昭に行きすぎがあり、放置すると将軍の権威に傷がつくので、信長が戒めたというのが実のところのようだ。しかも、義昭はこの諫言をまったく無視しているのだから、信長の傀儡であったとは到底いえない。
義昭と信長は相互に補完する関係にあった、というのが柴裕之氏、山田康弘氏をはじめとする研究者たちに共通する見解だ。要するに、信長は義昭に軍事力や警察力を提供する。そのおかげで義昭は上洛でき、将軍になれたのは事実だが、信長にとっても将軍を支えていることが、各地の大名らとの交渉を有利に運ぶきっかけになる。
最終的には元亀4年(1573)2月、義昭は信長と対立し、同年7月に信長によって京都から追い払われてしまう。しかし、それまでは二人のあいだにこうした協調関係が続いていたのである。
ディテールがいくら史実でも
話を「どうする家康」の場面に戻そう。古田新太演じる 表情から物腰、人との接し方まですべてが愚鈍を絵に描いたような義昭に、こうして信長と渡り合うことができただろうか。
ドラマでは、義昭は家康に「松平よ、よう参った」と語りかける。そこで松重豊演じる石川数正が、すでに徳川に改姓した旨を伝えると、義昭は「知らんわ、官位をカネで買った田舎者が」と吐き捨てる。
じつは、改姓に自分が関わっていないという理由で、義昭が家康の徳川姓を認めずに「松平家康」として扱った、ということは史料に記録がある。だから古沢良太の脚本は、細かいところまで史実にこだわっている面がないではない。
一方で、義昭が各地の大名らに馬を献上するようにたびたび求めたという記録もある。だったら、馬を献上しようとする家康サイドに向かって、馬は「ケモノ臭い」などと義昭に言わせないでほしい、という感想も抱いてしまう。
しかし、それより問題なのは、もっと根本的な歴史の骨組みの立て方である。
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