【どうする家康】歴史上の足利義昭は古田新太のようなバカ殿ではない…信長との“本当の関係”は?

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信長と斎藤氏の和睦を周旋

 足利義昭は若くして出家して覚慶と名乗り、奈良の興福寺内の一乗院にいたが、永禄8年(1565)5月、13代将軍で実兄の足利義輝が、京都で力をふるっていた三好一族らと対立し殺されてから、一躍脚光を浴びることになった。三好一族らは義輝の従兄弟の義栄を将軍に擁立したが、還俗した義昭は近江国矢島(滋賀県守山市)で再起を図り、各地の大名らに書状や使者を送って協力を呼びかけた。

 これに応えたのが信長だった。ただ、当時の信長は美濃国の斎藤氏と抗争中で、上洛する余裕がない。そこで義昭は信長と斎藤氏のあいだを取り持ち、永禄9年(1566)3月ごろ和睦を成立させた。こうしていったんは、義昭が信長とともに上洛する計画が進んだが、信長が和睦を破棄して斎藤氏と戦いはじめてしまい、計画は頓挫している。

 さて、ここでひとつ生じるのは、義昭が本当に暗愚だったら信長と斎藤氏という名うての大名たちの和睦を周旋できたか、という疑問である。

 だが、まずは話を前に進めよう。近江にいられなくなった義昭は越前国(福井県)の朝倉義景を頼ったが、義景はなかなか動いてくれない。一方、信長は永禄10年(1567)夏ごろに斎藤氏を滅ぼして美濃国を制圧。態勢が整ったため、越前国にいた義昭にあらためて上洛の支援を申し出たのだ。

 永禄11年(1568)7月、信長は義昭をあらたな本拠地の岐阜に迎え入れ、9月には岐阜を発って上洛が実現。10月18日、義昭は朝廷から征夷大将軍に任ぜられた。

実際に「天下」を管轄していた

 ここで確認しておきたいのは、上洛までの流れがすべて義昭主導で進んだということだ。信長もみずからの行動を文書に「供奉」と記しているように、あくまでも足利将軍を供奉して天下再興に協力するという姿勢だった。

 よく知られる言葉に「天下布武」がある。信長は永禄11年の中ごろ、つまり義昭に「供奉」して上洛する少し前から、この文字をハンコにして使っていて、以前は信長の「日本列島全体を武力で制圧する」という意志表示だと解釈されていた。しかし、現在ではここでいう「天下」は京都を中心とする五畿内(近畿地方の中央部)のことだと考えられている。

 そして、京都とその周辺では、争いの裁定などは義昭の意向を受けた奉行人らが審議し、奉書を発給して進めていたことがわかっている。軍事面でも義昭は、自分に協力した武将たちを、身の判断で五畿内の各地に配している。事実、永禄12年(1569)1月、義昭は京都の本圀寺に滞在中、三好三人衆の襲撃を受けたが、自身の奉公衆を率いて撃退している。

 義昭はこうして「天下」を直接的に管轄していたわけで、決して傀儡政権ではない――というのが今日、研究者のほぼ共通した見解なのである(久野雅司『足利義昭と織田信長』など)。

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