野茂フィーバー前夜にドジャースファンを沸かせた「ミステリアスな怪童」 野茂との意外な共通点は?(小林信也)

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 野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を交わし、MLBに挑戦したのは1995年。すでに28年前になる。

 序盤は勝ち星に恵まれなかったが、6月2日のニューヨーク・メッツ戦で初勝利を飾ると6月末までに2完封を含む6勝無敗と快進撃を続けた。往年の名投手サンディ・コーファックスを上回る「4試合で50奪三振」の球団記録も更新するなど、ストライキ明けで人気低迷が案じられたMLBを野茂が活気づけた。オールスターにも選ばれ、ナショナル・リーグの先発投手の大役も担った。

 そのセンセーショナルな活躍に「NOMOマニア」と呼ばれる熱狂的なファンが出現し話題となった。それほど野茂の活躍は神話的で特別なものだった。

 日本の野球ファンの多くはこうしたフィーバーを単純に野茂が巻き起こしたオリジナルな現象と思っていたかもしれないが、実は野茂への熱狂の背景には、強烈なノスタルジーとの「不思議な偶然の一致」があった。

 野茂が登場する14年前の81年。ドジャース・ファンはひとりのメキシコ人投手の出現に沸いた。

真上向く独自フォーム

 フェルナンド・バレンズエラ。メキシカン・リーグで活躍中にスカウトされ、80年秋にメジャー・デビューを果たした。本格的に活躍するのが81年。開幕投手だったジェリー・ロイスが故障し、代わって抜てきされて完封勝利を収めるところからバレンズエラのシンデレラ・ストーリーが始まる。開幕8連勝は当時の新人投手としては最多記録。しかもうち5勝が完封。左腕から繰り出す剛球とスクリューボールは、相手打者を圧倒した。右膝を上げると同時に、ジロッと天を見上げる独特の仕草も怪童の神秘性を高める効果抜群だった。

 60年11月、バレンズエラは、メキシコで農場を経営する家の12人兄弟の末っ子として生まれた。その記録が正しければ、旋風を巻き起こした81年には20歳だったが、実は55年生まれとの説もあり、真偽ははっきりしない。

 バレンズエラは英語をほとんど話さなかった。フード、ドリンク、ビアくらいしか英語を知らない。片言でしか会話しないミステリアスな怪童はいっそう近づき難いオーラをまとい、特別な存在となった。「フェルナンド・マニア」という存在も生まれた。そう、野茂の活躍で注目された「NOMOマニア」には、前例があった。そして野茂もまた、英語をほとんど喋らなかった。真上を向くバレンズエラ、真後ろを向く野茂。少し違うが、野球の常識を凌駕(りょうが)する独自のフォームという点でも共通していた。あとは奇しくも、ふたりがストライキの影響を受けたことも不思議な一致である。バレンズエラが快進撃を続ける中、MLB選手会は6月12日から7月31日までの50日間、ストライキを敢行した。

 私は、バレンズエラがドジャース・ファンを熱狂させていた81年夏、ロスを訪ねる機会があった。運よくドジャースタジアムのチケットが取れ、しかもバレンズエラの先発の日に当たった。しかし思えば、約2カ月もの中断を経て、開幕当初の勢いは失っていた。

 その試合、バレンズエラは序盤から乱調で、四球を与え、痛打を浴びた。前半の早い回で降板を命じられ、私は内心ガッカリしたものだ。ところが、次の瞬間、目にしたのは、怪童らしさがにじみ出た、強烈な光景だった。

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