日本の「100歳以上」は9万人 90歳で現役バリバリの五木寛之さんが語る「ボケ」との向き合い方
平均寿命は84歳で世界トップ、100歳以上の人口が9万人超という日本では「人生100年時代」はすでにリアルな現実だ。
もちろん長生きは喜ばしいことだが、健康寿命との差の10年ほどは当然ながら、さまざまな不調や病気と付き合うことになる。
その平均寿命をとうに過ぎ、昨年90歳になったのが作家の五木寛之さん。
驚くべきことに、いまだに日刊紙連載と複数の週刊誌連載を抱えており、バリバリの現役作家である。しかし、年齢が年齢だけに物忘れも多くなってきたという。
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その五木さんの最近の関心事の一つが「ボケ」あるいは「ボケかた」だ。
ある時期から「ボケ」という言葉は使われる頻度が減り、「認知症」が取って代わるようになった。
しかし、五木さんはこの「認知症」という表現にはいささか違和感があるようで、「ボケたらボケたと言えばいいのに」という考えだという。
良いボケかたとはどのようなものか。そんなことを考えていくうちに五木さんが到達したのは「ボケない生き方などない」という境地らしいのだ。
以下、新著『うらやましいボケかた』から五木さん流の「ボケ論」を見てみよう。
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うらやましいボケかた
最近、「認知が入る」という言葉を、しばしば耳にしたり、読んだりすることが多くなった。
「あの人、最近ちょっと認知が入ってきたみたいだね」
とか、
「ヨメの実家の母親が、どうやら認知が入ってきたらしくて大変なんだよ」
とか、そんな感じの言いかたである。
〈認知〉というのは、もちろん〈認知症〉のことだろう。身も蓋(ふた)もない言いかたをすれば、要するに〈ボケる〉ということだ。
私はこの〈認知症〉という言葉が、あまり好きではない。いまではかなり馴れたものの、
〈ボケたらボケたと言えばいいのに〉
と、いう気持ちをぬぐい去ることができずにいるのである。
戦後、人々がおそれていたのは〈死〉だったと思う。あの戦争を奇(く)しくも命ながらえて生き残ってきた人々には、生死の問題が重くのしかかっていたのだ。
上智大学のデーケン先生の発言などもあって、死をどう考えるかが一時、しきりに論じられたものである。
その時期を過ぎると、こんどは〈老い〉に注目が集るようになってきた。日本人の平均寿命がぐんとのびたこともあるだろう。〈百歳人生〉などという文句が巷に氾濫して、〈老い〉をめぐる論議は、いまもにぎやかに続いている。
しかし、〈死〉や〈老い〉についての関心は、現在やや翳(かげ)りをみせはじめてきているのではあるまいか。
国民の三分の一が高齢者、ということになると〈老い〉はありふれた日常にすぎない。
そこで今、人々の注目を集めつつあるのが、認知症、すなわちボケの問題である。
「いまさら物忘れがひどいなんて若ぶっても」
「ガンよりボケのほうがこわい」
と、言う人がいた。
正直なところどちらもこわいが、わが国の場合、ガンで死ぬ人は全体の三分の一くらいだという。うまくいけば、三分の二の人々はガンで死なずにすむことになる。
それに対して、認知症は加齢による自然な現象だ。最後まで頭脳がしっかりしている人もいるらしいが、それにしても長く生きれば生きるほど、人は多少なりともボケるのではあるまいか。
それはガンについても同じである、と医師は言う。死体を解剖すれば、どんな人にでも多少のガンは存在するらしい。しかし、ガンの存在を自覚せずに死ねるのなら、べつに問題はないだろう。
「イツキさんのお年じゃ、多少ボケたってなんの不思議もないでしょ。いまさら物忘れがひどいなんて若ぶっても駄目ですよ」
と笑われたことがある。しかし物忘れがひどいと嘆いて〈若ぶっている〉などと言われるのは心外だ。
最近、認知症に関する本を読んでいたら、初期の認知症の傾向について、こんなことが紹介されていた。
まず、物や人の名前がなかなか出てこなくなる。
それから、同じことを何度も繰り返して言う。また、同じことを何度もたずねる。
物をどこへ置いたか、しまったかがわからなくなる。
時間や場所の感覚が曖昧になる。
また、それまで興味があったことへの関心がなくなる。同時に自分の過去の記憶がはっきりしなくなる。
言われてみれば、私自身、どれにも多少はあてはまることばかりだ。
人の名前や固有名詞が出てこないのは、若い人にもよくあるケースである。しかし、岡本太郎さんのように、ホテルのフロントで「おれは誰?」と連れの人にきくのは、かなりの大物だろう。
いま、ふと考えてみると、この岡本さんのエピソードを、以前もこの連載のどこかで書いたことがあるような気がしてきた。
長期の連載をやっていると、同じ話を何度も繰り返して書いたりすることがままある。これは物書きとしての危険信号だ。書き手のボケは、その辺から始まるのかもしれない。
最近は、喋っていて人名や書名などがお互いに出てこなくなると、即座にスマホをとりだす人が多い。人名、経歴、著作など、たちまちにして出てくるのだから、おそろしいといえば、かなりおそろしい。ひょっとしたら記憶というものが、大して必要でなくなるのかもしれないのだ。
私はボケは自然な加齢現象だと思う。個人差はあっても、長生きすれば人はすべてボケていく。
アルツハイマー病はともかく、加齢によるボケは長生きの代償である。多少の差こそあれ、人は意識を差し出して、長寿を受けとるのだ。ボケない生きかたなど、ない。
しかし、そうなるとどうボケるかが問題になってくる。
悪いボケかたもあれば、良いボケかたもあるのではないか。またボケの表れ方にも濃淡がありそうな気もしてくる。素直なボケも、悪質なボケも、水彩画のようなボケも油絵のようなボケもありそうだ。
望ましいボケとはどういうものか。どうすればそこに一歩でも近づくことができるのか。
〈うらやましいボケかた〉
それが九十歳をこえた今の私の最大のテーマなのだ。