先発野手のほとんどが「偵察要員」…今ではありえない「昭和のプロ野球」であった驚くべき珍采配

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“代打の代打”

 1打席に3人の打者を起用する“執念の采配”で勝利を呼び込んだのが、“王貞治シフト”の考案者でも知られる広島・白石勝巳監督である。

 1965年6月6日の巨人戦、1回表に押し出し四球で1点を先制した広島は、なおも1死満塁で6番・宮川孝雄が打席に入った。

 だが、左打ちの宮川が左腕・伊藤芳明の初球を空振りすると、白石監督は「タイミングが合っていない」と右の代打・阿南準郎を起用した。ここまでなら、今でも時々見られるケースだ。

 ところが、巨人・川上哲治監督も伊藤に見切りをつけ、右腕・北川芳男をリリーフに送ると、白石監督は“代打の代打”森永勝也を告げる。

 森永は見事期待に応えて投手強襲安打を放ち、貴重な2点目を挙げた。かくして、1打席3打者の奇策がハマった広島は、2対1と逃げ切った。

 ちなみに宮川は、後に代打通算186安打の世界記録(2004年にマーリンズのレニー・ハリスに抜かれたが、現在でも通算代打起用数778回、通算代打打点118とともに日本歴代トップ)を樹立した“元祖・代打の神様”だが、まさか自分のあとに2人も代打を送られることになろうとは、何とも皮肉なめぐり合わせだった。

大沢親分の秘策

 代走に“足のスペシャリスト”を起用したはずなのに、直後、“代走の代走”が送られる珍事が起きたのが、1971年8月18日のロッテ対西鉄である。

 1点を追うロッテは7回、先頭の醍醐猛夫が二塁内野安打で出塁すると、イースタンの盗塁王・古川明が代走に送られた。

 古川は野球の強豪・銚子商の出身ながら、プロ入りするまで硬式ボールを握ったことがないという“異色選手”。前年、下手投げの打撃投手としてロッテにテスト入団したが、100メートル10秒台の俊足に目をつけた大沢啓二2軍監督が内野手に転向させた。

 すると、古川は6月だけで13盗塁を記録するなど、イースタンのシーズン前半で5試合連続を含む26盗塁と走りまくり、打率も3割台と一気にブレイクした。

 その後、7月23日に大沢監督が濃人渉監督と入れ替わる形で1軍の監督に就任すると、「素質だけなら1000万円プレーヤー」と見込まれた“秘蔵っ子”古川も初の1軍昇格をはたした。

 同点狙いの重要局面で代走に起用された古川は、すかさず二盗を決め、無死二塁とチャンスを広げる。ところが、ここで大沢監督はなんと古川の代走に千田啓介を起用するではないか。

“代走の代走”という奇策は、「古川は(一、二塁間の)直進なら抜群の足を持っているが、得点機に出た場合、(二塁上では)打球の判断がまだ甘い。そこで千田を使ったまでだが、お客さんにわかってもらえたかな?」(大沢監督)という納得ずくの理由からだった。

 だが、せっかくの大沢親分のアイデアも、この回は無得点に終わり、代走2人を無駄遣いする羽目に。同年、出場18試合で10盗塁を記録した古川も、シーズン後に引退となった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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