岸田首相のウクライナ入りで思い出す… 「夜行列車」で移動した大物政治家たち
板垣退助は大移動、後藤新平は乗車中に…
大隈の盟友でもある板垣退助は首相に就任することはなかったが、夜行列車で頻繁に移動した大物政治家だった。板垣は寝台車を連結していない夜行列車に乗車することもたびたびあった。
板垣は1892年に発足した第2次伊藤博文内閣で内務大臣に抜擢されるが、その在任時に明治三陸地震が発生。明治三陸地震では地震による家屋の倒壊はほとんどなかったが、その後に発生した津波によって甚大な被害を出している。
地震発生時、板垣は関西に出張中だった。津波の報告を受けた板垣はスケジュールを変更して帰京。そして、すぐに東北へ向かった。
東京から東北への移動は、上野駅から夜行列車を使うのがもっとも早い。地震が発生した1896年は寝台車が登場していないので、車中の板垣は硬い座席に体を預けるしかなかった。大規模災害の緊急時とはいえ、板垣は苦行とも思えるような鉄道移動をこなした。板垣のフットワークの軽さを示すエピソードといえるだろう。
板垣と同様に、絶大な国民的人気と実力を兼ね備えながらも鉄道を頻繁に利用していた政治家の一人に後藤新平がいる。
後藤は第2 次桂太郎内閣で逓信大臣に起用され、その後も大臣を歴任。1908年に鉄道事業を所管する鉄道院が発足すると、内務大臣と兼任する形で初代総裁を務めた。
そんな鉄道に知悉した後藤は、1929年に岡山で開かれる講演会に登壇するべく夜行列車に乗った。このときの後藤は寝台車を使用している。
しかし、その車中で脳溢血を発症。翌朝、京都駅で待機していた救急隊が近隣の病院へ搬送したが、そのまま帰らぬ人になっている。
進む政治家の夜行列車離れ
戦前期は移動手段が鉄道に限られていたこともあり、大物政治家でも夜行列車を利用した。戦後になると、政治家が夜行列車に乗車する機会は激減していく。そして新幹線網が全国へと広がり、各地に空港が開港した平成期になると、政治家が夜行列車で移動する機会はほぼなくなった。
寝台車は横になって寝ることができるが、それでも身体的・精神的な消耗が激しい。そうした消耗を避けるといった理由からも、政治家の夜行列車離れは進んでいった。
政治家の夜行列車離れが進む中、数少ない例外が鉄道マニアで知られる自民党の石破茂議員だろう。石破議員は東京から地元の鳥取県へ戻る際に、寝台特急のサンライズ瀬戸・出雲を多用していた。そのほか、公務の合間を縫って廃止直前の寝台特急あけぼのに乗車することもあった。
石破議員を除けば、最近の政治家が夜行列車に乗ることはきわめて珍しい。というより、そもそも現在は夜行列車が数えるほどしか運行されていない。政治家はおろか、一般人ですら夜行列車に乗りたいと思っても叶わない。
岸田首相がキーウを夜行列車で訪問したケースも、特に列車移動にこだわったわけではなく、あくまでも安全を最大限に考慮した結果に過ぎない。有事における例外中の例外でしかない。
日本国内の夜行列車が姿を消した理由は多々あるが、一因として鉄道の高速化が考えられる。新幹線を使えば、わざわざ夜行列車で移動することはなく、鉄道事業者も夜間に列車を走らせる必要はなくなる。
逆説な見方になるが、日本から夜行列車が消えつつあることは日本の鉄道が成熟したということであり、そして鉄道以外の移動手段が増えたということでもある。
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