「太陽光発電」「AI」への礼賛はなぜ生まれた? 「未来はこうなる」という主張に振り回される人々
論理偏重の思考法の欠陥
つまり2010年代以降に顕著になった、それらの風潮は「新しくない」。その生みの親はテクノロジーの進歩というより、敗戦直後にも似たニヒリズムの深まりだった。社会のデジタル化は、三島が洞察した人間不信の闇を誰の目にも「見えやすく」しただけで、新しい何物をも生み出してはいません。
さらに三島は、今日ならAI的とも評されるだろう誠の論理偏重の思考法の欠陥を、こう指摘します。
「時間のかからないことが論理の長所であり短所である。……未来の確実さは時間の確実さだけに懸っており、論理にとってこれほど我慢ならぬことはない。そこで未来が論理的にも決定されていると言おうとするのである。」
2010年代以来、私たちはさまざまな未来予測を聞いてきました。太陽光発電は「必ず」原発のコストを下回り、シンギュラリティを迎えてAIは「必ず」人間を追い越すといったように。しかしそれらはメガソーラーの設置や人工知能の開発を正当化するための「論理」から逆算して、演繹的に導かれた未来像にすぎません。
昨年『長い江戸時代のおわり』(池田信夫氏と共著)で指摘したとおり、カーボンゼロにしなければ「必ず」海面上昇で人類が亡ぶといった予測も同じです。ポジティブとネガティブとを問わず、「未来が論理的にも決定されている」とする主張は、単にその論理でビジネスや社会運動を営む人が投資を呼び込むセールストークにすぎず、聞く側も今後はそう割り切って受け止めるべきでしょう。
予測した未来が来てくれないと困る人々
こうした未来が来てくれないと「論理上、私が困るので」、来ますと断言する。そんな発想のおかしさに多くの人が気付き始めたのは、2020年からの新型コロナウイルス禍の体験もあったと思われます。
国民に自粛を要請するには「最大42万人が死亡する未来」が来てくれなくては困る。結果として空振りとなった行動制限にも意味があったと感じるためには、「到着を待っていたワクチンが感染を封じ込める未来」が続かなくては困る……。そうした一部の識者や業界の論理に振り回されて、私たちの国は「当初のコロナの被害は最小、しかし対策の副作用は最大」の惨状へと迷い込んでゆきました。
こうした論理=青写真を暴走させるニヒリズムは、どうすれば克服できるのか。三島は誠とは対照的な脇役の親戚(またいとこの易)を登場させることで、手がかりを示しています。
誠の虚無的な性格を育てたのは、幼少時に欲しいものを伝えても「どうせ無駄になるから」と未来を先回りして希望を潰される、川崎家の教育方針でした。対して戦前は海軍兵学校に憧れ、戦後は共産党に入党する易は、知的な素質では誠をはるかに下回る凡才ながら、最後に幸せをつかむことが示唆されて『青の時代』は閉じられます。
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