王貞治に世界新記録「756号」を打たれた男が固辞した“勇気ある投手賞” サイパンペア旅行に「ああいう招待はおかしい」

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「打たれた瞬間に“やられた!”と思った」

 1打席目は四球。この打席もフルカウントになったが、6球目、捕手・八重樫幸雄が外角低めに要求したシュートが魅入られたように内角ベルト寄りに入っていった。いつもなら外角に体を寄せる八重樫の動きが中途半端で、その分球が内寄りになったともいわれ、「四球を出してはいけない」の気持ちも微妙にコントロールを狂わせたのかもしれない。

「鈴木投手はシンカーのような落ちる球で勝負してきたので、ヒットはともかくホームランは難しいと思っていた」という王も、さすがにこの1球は見逃さなかった。

 直後、快音を発した打球は、“アーロン超え”の756号となって右翼席中段へ。「打たれた瞬間に“やられた!”と思った。756号はそのうち出ると思っていたが、まさか自分とは……」という鈴木さんにとって、王に許した初めての本塁打でもあった。

「本当に夢みたいですね。一生忘れられない思い出です。悔しいという気持ちはありません」と振り返った鈴木さんだったが、「サイパンには行きません。ああいう招待はおかしいですよ」と“勇気ある投手賞”を固辞した。

 一方、王は「本当に私は幸せな男だと思います」と世界新の快挙を喜びつつも、「彼にはこういうめぐり合わせになって、大変申し訳ない。皆さんから(756号を打たれたことを)質問されて、しんどい思いをしたのではないかと心配です」と鈴木さんの胸中を思いやることも忘れなかった。

サイパンは鬼門

 翌78年も13勝3敗の好成績で最高勝率に輝き、球団初の日本一にも貢献した鈴木さんは、83年に井本隆との交換トレードで近鉄に移籍するが、新天地でもエピソードには事欠かなかった。

 当時の近鉄には、同姓のエース・鈴木啓示がいた。「鈴木啓」と表記されることを嫌った“草魂”左腕は「近鉄の鈴木はワシ一人や。できたら奥さんの姓を名乗ってほしい」(週刊ベースボール1983年1月24日号)と要望したという。球団には「あちらを“鈴木康”にして、こちらは“鈴木”でいいじゃないか」と要望したとも伝わる。

 これに対して、鈴木さんは「嫁さんの姓で? 養子みたいだから嫌ですよ」とユーモラスに切り返している。結局、球団はエースのわがままを認めず、「鈴木啓」「鈴木康」の表記になった。

 その後、鈴木さんは、鈴木啓が通算299勝目を記録した84年4月24日のロッテ戦でセーブを挙げ、大記録に王手をかけたエースをアシストしている。石本貴昭とダブルストッパーになった鈴木さんは、3年間で通算44セーブと活躍した。

 ところが、移籍3年目の85年、チームのキャンプ地がサイパンに変更され、不思議な運命の糸に手繰り寄せられるようにして、かつて招待を固辞したサイパンに行くことになった。

 慢性的な右肘痛に悩んでいた鈴木さんは、ヤクルト時代のユマキャンプでの経験を生かし、立っているだけで汗ばむほどの陽気の中でも、右肘に分厚いサポーターを巻いて、摂生に努めていた。

 だが、差し歯が取れるアクシデントと内臓検査の必要が生じたため、キャンプ打ち上げ3日前にひと足早く帰阪した。チームは変わっても、サイパンは鬼門だったようだ。

 1986年限りでプロ野球界を去った鈴木さん(その後は軟式でプレー)だが、通算81勝54敗52セーブは、「王に756号を打たれた」の形容詞抜きで、“プロで成功した投手”と呼ぶにふさわしい堂々たる成績と言えるだろう。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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