【どうする家康】溝端淳平演じる闇落ちの悪役「今川氏真」は、滅亡したのになぜ生きながらえたのか
駿河国(静岡県東部)の領主だった今川義元の嫡男で、あとを継いだ今川氏真を、大河ドラマ『どうする家康』では溝端淳平が好演している。 溝端自身がインタビューに答えて、氏真について「悪役」「闇落ち」「劣等感のかたまり」などと語っていたが、実際、そうした氏真像が描き出されている。
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徳川家康は竹千代と呼ばれた8歳のときから、三河国(愛知県東部)の岡崎城主という身分のまま、駿府(静岡県静岡市)の今川義元のもとで人質になっていた。だから天文11年(1542)生まれの家康は、天文7年(1538)生まれの氏真とは幼馴染の間柄だった。
ところが永禄3年(1560)、尾張国(愛知県西部)に侵攻した今川義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討ちとられてしまう。当時、戦国大名の家臣団は、必ずしも「終身雇用」ではなかった。大名たちがしのぎを削るご時世、主君が弱体化してしまっては、自分が生き残れない。だから家臣たちも主君を選ぶ必要があった。
駿河国でもご多分に漏れず、義元が死ぬと家臣たちの離反が相次ぐ事態になった。そんななか、幼馴染の松平元康(のちの家康)が永禄5年(1562)、今川家と対立している織田信長と同盟を結んだことは、氏真にとっては痛恨の事態だった。
事実、氏真が発給した文書のなかには「岡崎逆心」「松平蔵人(元康)逆心」「三州(三河国)過半錯乱」など、激しく非難する言葉がいくつも見つかる。
元康の離反を知った氏真が、駿河に残っていた三河の家臣たちの妻子を惨殺したシーンは(第3話)、ネットの反応などを見るかぎり、視聴者のあいだにかなり陰惨な印象を残したようだ。そのあたりの「闇落ち」ぶりを、溝端がよく演じている。
家康に反撃できずに勢力衰退
ドラマでは、永禄5年(1562)に元康が上之郷城(愛知県蒲郡市)を攻めて今川家の重臣、鵜殿長照を討ち取り、その二人の息子を生け捕りにし、彼らとの交換で、なおも駿府に人質になっていた家康の妻子を交換する模様が描かれた。妻子とは正妻で有村架純演じる瀬名こと築山殿と、嫡男でのちの松平信康である竹千代、長女の亀姫である。
築山殿と亀姫については、それ以前から岡崎に戻っていたとも言われている。それはともかく、もはや今川家に義理立てする必要がなくなった元康は、永禄6年(1563)6月、今川義元からもらった「元」の一字を捨てて家康と改名。期を同じくして今川方の勢力は、目に見えて劣勢になっていった。
当時はまだ、駿河国に加えて遠江国(静岡県西部)および三河国東部は、氏真の勢力下にあった。そして、ドラマでも大きく扱われた三河一向一揆は、氏真にとって家康に反撃する絶好の機会になるはずだったが、そうはならなかった。同じ時期に遠江国の国衆(土着の家臣)たちの離反が相次いで、それどころではなくなってしまったのだ。
そして遠州(遠江国)の騒乱が2年も続くうちに、三河東部における今川氏の勢力は、一向一揆を収束させた家康の手で永禄9年(1566)までに一掃されてしまった。
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