「何度断っても電話、手紙が」 バドミントン「相沢・竹中組」を見いだしたコーチのひらめき(小林信也)
「音を聴いて打て!」
石川県河北郡高松町で生まれ育った竹中悦子は、高校3年の時、インターハイに出場はしたが2回戦で敗れた。バドミントンはもうやめようと思っていた。ところが高3の秋、突然、竹中が通う金沢二水高校に新潟青陵の阿部監督と「雲の上の存在」だった相沢マチ子が訪ねてきた。
(なぜ、相沢さんが?)
竹中は驚き、困惑した。
相沢は、神奈川で開かれた全日本選手権に出場。高校生ながら史上初の決勝進出を果たした。残念ながら決勝で敗れた直後、阿部に、「どうせなら、金沢に寄って竹中悦子を勧誘してから新潟に帰ろう」と言われてついてきたのだ。
「竹中は未完成だが、勢いがある、力がある。ダブルスで世界を取るには竹中のようなパートナーが必要だ」
阿部は竹中の潜在能力に特別なものを見て取った。
「青陵で相沢とやってみないか」
いきなり阿部に誘われ、竹中はただ戸惑った。何しろ実績がない。自信もない。
「相沢さんとは春休みに練習試合をした経験がありました。足元にも及ばなかった。実力は雲泥の差だとわかっていました。だから」
その場ですぐ断った。
「ところが、何度断っても電話が来る、手紙も来ました。『冬休みに合宿を見に来ないか』と誘われて、どんな練習をしているのか興味はあったから……」
体育館を訪れて驚いた。
「当時は湯木博恵さんとか、トップ選手しかできないと思っていたハイバック(後ろ向きで高いシャトルを打ち返す打法)を新潟の中学生が軽々と打っていた」
竹中の気持ちが動いた。
(ここでやれば、自分も強くなれるかもしれない)
決意して短大に入学すると、当時珍しかったウエイトやサーキットなどの最新式トレーニング、最大酸素摂取量の測定までやった。
「体育館を真っ暗にして、『音を聴いて打て!』とか、大音量の音楽をかけてシャトルの音も聞こえない中で打ち合う練習もした。新鮮でワクワクドキドキ、ちょっと怖さも混じった毎日でした。阿部先生を信じてやれば、もしかしたら……」
すぐ手応えを感じ始めた。そしてわずか半年後、相沢・竹中は1968年全日本選手権女子ダブルス日本一に輝く。さらに72年に全英オープン女子ダブルスも制覇。阿部が示した目標を見事に達成した。ふたりは翌73年と75年にも同大会で優勝。
阿部は後に筑波大教授となり、独自の指導をいまも続けている。竹中は70年に全英オープン女子シングルスも制覇。現在も主に中高年の愛好者に連日のように指導をしている。
相沢は日本初のプロとしてヨネヤマラケット(現ヨネックス)と契約。普及に貢献した後、ゴルフのレッスンプロに転向し、人気インストラクターとなった。今春からはコースでのレッスンを専門にする新たな挑戦を始めている。