【放送法問題】政治報道を巡る「自民党vs.テレビ」の長き戦い 田中角栄の“目論見”と本当の問題点
保釈後の田中元首相をNHK会長がお見舞い
田中氏の力はNHKにも及んだ。半端な力ではない。田中氏は1976年7月にロッキード事件で逮捕され、翌8月に保釈されたが、その1週間後には当時のNHK会長・小野吉郎氏が田中邸に「お見舞い」に訪れた。当然、同局には視聴者からの抗議電話が殺到した。
会長決定権を持つNHK経営委員人事は与党の権力者が握っている。この時代は田中氏だった。だから、こんな非常識なことも起きる。
ロッキード事件とNHKの問題は1981年にもあった。現在の「ニュースウオッチ9」のルーツに当たる「ニュースセンター9時」が、「ロッキード事件5年-田中角栄の光と影」という特集の放送を予定していた。ところが、番組開始のわずか3時間前に報道局長の職務命令によって再編集させられる。
この局長とは後に会長となる島桂次氏。長く宏池会(現・岸田派)の担当記者だったものの、田中派とのパイプも太かった。
もちろん島氏の部下たちは憤ったが、自民党べったりでも会長になれた。いや、自民党べったりだから会長になれた。
田中氏が刑事被告人になろうが、郵政相に誰が就こうが、1950年代後半からテレビ界を支配していたのは田中氏と田中派だった。
1987年に田中派の流れを汲む経世会(竹下派)が生まれると、テレビ界は同会が統治するようになる。その中心にいたのは竹下登元首相と野中広務元幹事長。逓信族の大物だ。野中氏は「逓信族のドン」と呼ばれた。
だが、ドンの野中氏にも政界引退の日は来た。2003年のことである。田中派、経世会がテレビ界を仕切るという構図が崩れた。
放送行政のドン・野中広務氏が政界引退すると…
2005年1月には朝日新聞がこんな報道をした。NHK教育テレビが従軍慰安婦問題を扱った「ETV2001 問われる戦時性暴力」(2001年1月30日放送)について、当時の安倍晋三官房副長官と中川昭一衆院議員がNHK幹部を呼び、「偏った内容だ」などと指摘したという。その後、番組は再編集された。この報道のままなら圧力と言われても仕方がない。
しかし、安倍、中川氏らは圧力を否定。NHK側まで認めなかった。ところが、現場スタッフたちは政治の介入を示唆するという異様な事態となった。
この問題は番組制作に協力した市民団体が「事前説明と異なる番組内容に改編された」として提訴。東京高裁は「NHKの幹部が放送前に安倍氏らと面談し、相手の発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度して改編した」と認定した。
すっきりしない結果だったが、明らかになったことは、各局の視線が野中氏から安倍氏とその周辺に移ったということだった。
それまでの逓信族と一線を画した竹中平蔵氏(72)が2005年に総務相に就くと、NHK受信料の義務化に向かって動き始めた。同局も乗り気だった。
しかし、これではNHKが得をするだけ。翌2006年に後任の総務相となった菅義偉元首相(74)は義務化と一緒に受信料の2割値下げをNHK側に要求。だが、これを同局は予算的に無理だと判断。難色を示し、義務化は幻に終わる。
菅氏は不満だったようだ。省内でNHKとの調整に当たっていた放送政策課課長を更迭した。菅氏は受信料問題と無関係としたものの、省内には緊張が走った。NHKも菅氏の剛腕を痛感させられた。
菅氏は翌2007年、今度は民放全体を震え上がらせる。フジテレビ系関西テレビの「発掘!あるある大事典II」に捏造があったことが発覚すると、再発した場合は停波もあると関テレに対して行政指導したからだ。
それまでも「アフタヌーンショー」(テレビ朝日)による「やらせリンチ事件」(1895年)などの大きな不祥事があった。佐藤氏らも停波を口にした。だが、具体的に停波を持ち出したのは菅氏が初めてだった。停波が長くなったら、その局と関連会社は確実に潰れる。系列局全体に深刻な影響が出る。戦慄が走るはずである。菅氏の存在もテレビ界で大きなものとなった。
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