昭和最大の不倫スキャンダル「西山事件裁判」で西山太吉氏を追及した検察官が晩年に語っていたこと
父の回顧
取材源である女性の身柄拘束が解けていない以上、西山さんだけ釈放させてしまうなど論外だ。蓮見さんが釈放されるまで、準抗告などするべきではなかった。これは弁護団の失敗とはいえ、準抗告は刑事訴訟法上の初歩的な手続きで、新聞記者だった西山さんも「そんな事情も法律も知らなかった」とは言えない立場である。
ただ、70歳を超えて言論活動を再開した西山さんは自覚していた。すべての過ちを悟り、約30年間、罰として自身に沈黙を科していたように思う。言論活動再開後も沖縄、外交密約、知る権利といったテーマのみしか西山さんとは語ったことはない。
父の晩年に、西山事件裁判について聞いたことがある。以下が記憶しているやり取りだ。
私 西山太吉事件を担当した石山と沢地久枝さんの本にあるけど?
父 やった。当初は担当じゃなかったが、東京地検としては注目がすごい裁判で人手が足らず、法廷に立つ羽目になった。西山を起訴するほどの話ではそもそもなかったし、当時の記者は西山のような奴ばかり。妻子がいながら女と浮気している検察官の話でさえごく普通にあった。
「ただなあ」と父は言葉を継いだ。
父 戦後の民主化で、世の女性たちが目覚めて西山の浮気に怒ったんだ。これに検察も驚いて起訴してしまった。俺は起訴の段階では別の仕事をやっていて、その後に加わったから苦労した。フェミニストなんて記者にも検察官にもいなかった。そもそも当時、この言葉の意味は「女にやさしい男」だった。女性たちが西山を嫌悪したことに検察も驚いた。今なら裁判にもならないんじゃないか。ただ、毎日もあれでものすごく部数を落とした。それからは朝日になった。よかったんだかどうか。
私 西山記者はどういう人だった?
父 公判で見ただけ。普通の記者。ただ、毎日政治部のトップ記者だったらしい。あの事件がなければ、出世してナベツネ(読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡邉恒雄氏)と入れ替わっていたんじゃないか。西山とナベツネは仲がよかったしね。
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