昭和最大の不倫スキャンダル「西山事件裁判」で西山太吉氏を追及した検察官が晩年に語っていたこと
毎日は数百万部落として朝日や読売に持っていかれた
西山さんにお会いしたのも沖縄問題について取材するようになってからのことだ。西山さんとはジャーナリストとしては共闘する関係だったが、西山さんの関心はあくまで密約が核にあり、私の関心は沖縄の現場や米側の取材であった。
最初は「噂の真相」元編集長の岡留安則さんに呼ばれたCS番組での共演だった。その後も、沖縄基地問題のシンポジウムやその打ち上げで何度かお会いした。ただ、「法廷であなたを追及した検察官の息子です」と打ち明けたことはない。話そうと思ったことが実はあるのだが、そんな話をできるほど懇意ではなかった。
1982年に共同通信に入社するまで、そもそも私は西山事件についてほとんど知らなかった。しかし、同世代の毎日新聞記者に初任地・宇都宮の栃木県警記者クラブで初めて聞かされた。
「あの事件で毎日新聞は部数を数百万部落として、その部数を朝日や読売に持っていかれたんだ。社内では今でも『情を通じた』取材についての議論が続いてるけど、経営的には大打撃の事件だった。あの事件の前までは、毎日が部数的にもいちばん勢いがあった全国紙だったのに」
私は毎日新聞記者の蘊蓄(うんちく)をメモする勢いで聞いた。
西山さんが犯した“重罪”
当初、西山さんは入手した情報をぎりぎり取材源が秘匿できる範囲で、毎日新聞に沖縄返還に関する密約があったことを書いた。だが、記事が世間に注目されなかったことに焦りを感じ、蓮見さんから入手した外務省の極秘資料そのものを社会党の衆議院議員だった横路孝弘氏(後の北海道知事、故人)らに渡してしまった。横路氏はその資料を元に、衆議院予算委員会で当時の福田赳夫外相らに沖縄返還をめぐる日米密約の存在を追及したが、電信文そのものを国会で示してしまったため、蓮見さんが情報源だとバレてしまった。
取材資料を執筆目的以外に利用した西山さんの行為は、私が勤務していた共同通信であれば懲戒免職となる。もし、当時の西山さんが私の後輩であれば、「取り調べには基本的にカンモク(完全黙秘)しろ。釈明せず、罰を受けろ」と大胆に言っただろう。取材源が明らかになり、蓮見さんが被告になってしまったことは横路氏に資料を流した以上の“重罪”だからだ。
西山さんの弁護団にも大きな失敗があった。西山さん逮捕後、10日間の勾留決定の取り消しを求める準抗告を東京地裁刑事第2部に対して行ったことだ。この準抗告で西山さんは釈放されたが、蓮見さんの怒りを買った。
澤地さんの「密約」にはこうある。
〈準抗告をすれば、釈放は間違いない蓮見さんのために、その手続きはとられなかった。勾留理由開示請求もなされなかった。そして、東京地検で検事の取り調べを受けている蓮見さんの陳述に、はっきりと西山記者への怨(うら)みと憎しみが出てくるのは、西山記者釈放がその岐(わか)れ目になっている〉
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