ウクライナ侵攻の裏にあった、NATOの信じられない「平和ボケ」文書
2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナへの全面侵攻は、世界に巨大な衝撃をもたらした。侵攻から1年を迎える現在も戦争は終わらず、ロシアによる攻撃のさらなる激化が懸念されている。
この戦争をどのように捉えればよいのか、戦争はいつ終わるのか、戦後の世界はどうなるのか――多くの専門家が考察を重ねているなか、慶應義塾大学准教授で現代欧州政治と国際安全保障が専門の鶴岡路人氏は、「この戦争は『ウクライナ vs. ロシア』という構図だけでは理解できない。『欧州の戦争』という視座が必要だ」と説く。どういうことだろうか。
鶴岡氏の新著『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』から、「欧州の戦争」である理由を見てみよう。
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「プーチンの戦争」として始まった戦争
端的にいえば、この戦争は「プーチンの戦争」ないし「ロシアの戦争」としてはじまった。しかし、当初のロシアの計画どおりには進まなかったために、戦争の性格が次第に変化した。ウクライナが抵抗を示すなかで、米欧の同盟であるNATO(北大西洋条約機構)の関与が深まるとともに、欧州全域への影響が大きくなり、今回の戦争は「欧州戦争」と呼ぶべきものへと変容したのである。欧州全域を視野に入れることで、この戦争の本質が明らかになる。
欧州大陸で起きたこの戦争は、何よりもまず欧州の人々にとって衝撃的だった。世界史的にみれば、欧州こそ、世界でおそらくもっとも繰り返し大戦争を経験してきた場所である。冷戦時代のハンガリー動乱やプラハの春、冷戦後の旧ユーゴスラヴィア各地での紛争や2008年のロシア・ジョージア戦争、さらには2014年からのウクライナのドンバスにおける紛争など、第2次世界大戦後も、さまざまな紛争が存在してきた。ただし、ここまで大規模な戦争は勃発してこなかった。
NATOの信じられない「平和ボケ」文書
いまとなっては隔世の感というほかないが、2003年12月に採択されたEU(欧州連合)としてはじめての安全保障戦略となった「欧州安全保障戦略(European Security Strategy)」は、「欧州がこれほどまでに繁栄し、安全で自由だったことはない」との言葉ではじまっていた。また、2010年11月のNATO戦略概念は「今日の欧州・大西洋地域は平和で、NATO領域に対する通常兵器による攻撃のリスクは低い」と謳っていた。EUのみが「平和ボケ」だったのではない。NATOの脅威認識も大差なかった。しかも2010年戦略概念は、2008年のロシア・ジョージア戦争の後である。
こうした脅威認識が長年続いていたがゆえに、2014年のロシアによるクリミアの違法かつ一方的な併合やドンバス紛争などは、欧州にとっては意表を突かれたようなものであり、さらに今回、チェチェンやシリアで起きたような戦闘が欧州の地で繰り返されたことに、欧州の人々は大きな衝撃を受けることになったのである。
これが欧州中心主義的な発想、ないし差別的な見方であったことは否定できない。シリアの地で紛争が起き、人々が殺されることは当たり前だが、欧州でそれが起きるのは許せないというのは自分勝手だろう。避難民にしても、シリア人の受け入れは論争的だが、ウクライナ人は温かく迎え入れられるとすれば、そこに差別的態度を見出すことは難しくない。
ただし、そうした姿勢の是非を問うこと自体がここでの目的ではない。欧州にとっての衝撃が大きかった事実は、たとえそれが欧州人の身勝手だったとしても、今回の戦争を理解するうえでの基礎になる。ここでいう衝撃には、信じられないものをみせつけられたことへの狼狽と、それに対する怒りとしての憤慨の両感情が含まれている。これに加えて、この戦争への対処を間違えば、さらなる惨禍が欧州に広がってしまうことへの懸念もある。後者は、現実的な利害計算の側面である。
どれだけグローバル化しても、人間が本気になるのは身近な問題だけ
日本にとってのウクライナは、ユーラシア大陸の反対側であるが、欧州にとっては近隣地域である。EU、NATOの加盟国のうち、北からポーランド、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアの4カ国がウクライナと国境を接している。そして、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドが(飛び地を含めて)ロシアと国境を接している。
どれだけグローバル化が指摘されても、人間が本気になるのは身近な問題となってこそなのだろう。そのことは、欧州内の温度差にもあらわれている。ウクライナでロシアの侵攻を止めなければ「次は自分たちが標的になる」と考えるバルト3国やポーランドに対して、ドイツやフランス、イタリアなどを含め、地理的にロシアから離れている諸国に、そこまでの切迫感はない。また、石油や天然ガスのロシア依存からの脱却、いわゆる「脱ロシア」化にしても、海に面し、タンカーによる輸入が可能である国々と、内陸国でロシアからのパイプラインに頼らざるを得ない、例えばハンガリーやチェコとでは事情が異なる。政治・外交面において対露姿勢を色分けすることは可能だが、その重要な要素は地理的条件であることも多い。
この戦争は“欧州の問題”なのである
今回の戦争を理解するには欧州の理解が不可欠である。
そもそも、ウクライナは欧州である。同国のEUやNATOへの加盟問題は、それ自体が論争的ではあるものの、ウクライナが欧州の国であり、ウクライナ人が欧州人であることへの異論はあまりないようにみえる。そうであればこそ、この戦争は、ロシアの問題であるとともに欧州の問題なのである。
2014年のロシアによるクリミアの違法かつ一方的な併合は、圧倒的にロシアの問題として議論された。「なぜプーチンはそのような行動に出たのか」という観点での分析である。残念ながら欧州の側面はあまり注目を集めなかった。今回の戦争にあたっても、「プーチンは何を考えているのか、何を求めているのか」といった議論になりがちな傾向は依然として残っているものの、ウクライナ側の抵抗、そして米国のみならず欧州の対応、欧州への影響などがより多く議論されるようになっている。
今回の戦争に関して、ロシアの意図や行動の分析が不可欠であることは論を俟たないが、それらについては日本でも分析の蓄積がある。不足しているのは、NATOを含め、欧州の対応や欧州が直面する諸問題、さらには欧州の将来に対してこの戦争が有する意味などに関する分析だ。
※『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』から一部を再編集。