還暦を越えて保育士に、漁師やタクシー運転手も 元プロ野球選手が語る“意外過ぎる”第二の人生に迫る

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 前回に続いて元プロ野球選手のさまざまな人生模様を追う特別読物。現役を退き、指導者になって初めて目の当たりにした世界の陰影や、新たな仕事への挑戦と日々の苦悩、喜びを、四人の男たちがノンフィクション・ライターの西所正道氏によるインタビューで語った。

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 2度の首位打者に輝いた元広島・正田耕三(61)は、1月、大きなバッグを持って東京駅に現れた。

「これから都内でプロ野球選手会の仕事があって、その後は山口県に行くんです。過疎地で野球を頑張っている15人ほどの小・中学生を教えるために。通い始めたのは6年前かな。これぐらいの年齢の子って、ちょっと教えるとすごく伸びる。それが面白くてね」

 聞けば、1カ月に10日前後は、子どもに野球を教える活動に取り組んでいるという。地元関西を中心に地方にも行く。しかも無料で。

「僕はもう恩をお返しする番ですから。プロ野球の世界では十分な年俸をいただいて、いい思いを十分させてもらいましたから。今朝も大阪を出る前、“朝マック”を食べました。食事もそれで十分なんで(笑)」

「頭を下げたら殴られ…」

 正田は市立和歌山商業(現・市立和歌山高校)から新日鉄広畑へ。1984年のロサンゼルス五輪に出場し、金メダル獲得に貢献した。そうした実績が評価され、同年、広島からドラフト2位指名を受ける。

 しかしルーキーイヤーの打率は2割に届かず、当時の古葉竹識監督の勧めでスイッチヒッターに挑戦した。

「なんぼやっても打てない。利き腕の右で打てないのに左で打てるかと思って、当時の内田順三コーチにできませんと頭を下げたら殴られて。猛練習を続けたら、2年後に打率が3割を超えた。練習をやめていたら首位打者は難しかったですよ。違うステージに行くためには挑戦せなあかんのです」

 89年には盗塁王。その他、二塁手でベストナイン2回、ゴールデングラブを5回受賞している。

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