「ガイドライン」に服従してしまう日本人 「法律ではないから従わない」でいいハズが(中川淳一郎)
「文科省のガイドラインに従っています」「国交省・厚労省によるガイドラインがないと困ります」──これらは新型コロナ騒動以降、教育委員会や学校、そして各種公共交通機関・商業施設で散々言われてきた「感染対策」への意見・要望です。
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今回はこの「ガイドライン」という言葉について考えますが、ガイドラインってあくまでも「指標」「参考」ですよね。すっかりこの言葉が嫌いになりました。強制力は一切ないのに、水戸黄門の印籠のごとき絶対性を有するようになった。個別の店舗や施設は独自の対策をすればいいのに、とにかく「指示待ち」であり続けた。
「ガイドラインってことは法律ではないから罰則ないですよね。じゃあ従いません」というのが使い手側の正論なのですが、この3年間のコロナ騒動下、完全に法律と同等あるいはそれ以上のすさまじい効果を発揮した。ガイドラインってそんなにすごい強制力があったんだ!と思ったものです。それと同時に「ガイドライン」の一言で大衆を屈服させるのが可能であることも分かりました。
たとえば、駅の改札口に立つ門番が「お客様、マスクの着用をお願いします」と言った場合、していない客は「それは任意ですよね」と反論します。すると門番は十中八九、「国交省のガイドラインに従っています」と言う。これでほとんどの人は引き下がり、マスクを着けます。
しかし、それに対して「なんじゃ、ワレ!」と思った人はその場で国交省に電話をし、「駅や電車でマスクをするよう交通機関に強制させているのか?」と聞くわけです。おそらく役人は「そんなことはありません。あくまでも『推奨』ですので、強制力はありません」と答えるでしょう。そして「国交省の担当者は強制はしていないと言っています」と改札の門番に伝えると、「どうぞお通りください」となる。
要するに、波風立てたくない現場がガイドラインとやらを盾に無難路線に突き進んだだけです。ガイドラインを読んだうえで、「とにかく感染対策を徹底させ、特にマスクをしていない人間を排除すればいいんですね!」ということになったのです。
ガイドラインが日常に持ち込まれたらヤバいですよ。何しろいくらでも拡大解釈が可能ですから。厚労省が「健康増進のため、居酒屋における飲食ガイドライン」を作ったとしましょうか。内容としては「過度な飲酒をする客がいた場合は状況を確認し、場合によっては追加の提供をやめる」程度になるのでは。明確な基準はないのに、店側が「健康のため生中は3杯まで。痛風が怖いため、あん肝を頼んだ場合、レバーや魚卵類は追加注文禁止」とか独自のルールを言い出す。やめてくれ。
結局「ガイドライン」とは責任をとりたくない現場と当局の利害が一致しただけで、「ワシはガイドラインを示した」「ワシはガイドラインに従った」というこの両者の立場を守るもの。ユーザーのためではないのです。他責の念が強い日本人とガイドラインはけだし相性が良過ぎました。しかし「週刊誌原稿執筆ガイドライン」がなくて良かった。何も書けなくなる。