大谷カメラの原点 「プロ野球中継の父」と言われるテレビマン・後藤達彦氏の類稀なる発想とは
無駄な新技術
だが、後藤氏は1994年に63歳で他界するまで「野球中継にはカメラは3台あればいい。今は基礎が忘れられている」と憂いていた。確かに視聴者ニーズと合わず、消えていった新技術も少なくない。
例えば1977年からNHKが使ったストロボアクション(モーショントレーサー)である。投手の手から離れたボールが捕手のミットに収まるまでの軌跡を、ストロボ写真の画像処理を応用し、視聴者に見せた。民放も採り入れたが、さっぱり人気が出ず、消えていった。こんなものを野球ファンは望んでいなかった。
盗塁する走者のスピードを計測し、その数字を画面に表示する局もあったが、これも消えた。盗塁はテクニックも重要で、足が速ければ成功するとは限らないからだ。
後藤氏は1964年に制作に異動すると、「11PM」を立ち上げ、ジャズメンで俳人の故・大橋巨泉氏を司会の1人に起用した。「名司会者の条件は音感が良いこと」などと考えていたためだ。後藤氏の読み通り、巨泉氏は名司会者になった。
部下たちには「何でもいいから自分がやりたいことをやれ」と指示。その結果、ベトナム戦争から麻雀、釣り、競馬まで取り上げられることになった。矢追純一氏(87)は日本初のUFO特集、超能力特集を手掛けた。
その後の後藤氏は編成局次長、スポーツ教養局長、エグゼクティブ・プロデューサーなどを歴任。定年前の1983年4月に退職すると、フジサンケイグループからスカウトされ、同年秋から1992年まで10回行われた「国際スポーツフェア」(東京・国立代々木競技場と周辺地区)の総合プロデューサーに就き、大成功に導く。このイベントをおぼえている方も多いはずだ。
後藤氏の死から29年が過ぎたが、その名を知らぬテレビマンはいない。