大谷カメラの原点 「プロ野球中継の父」と言われるテレビマン・後藤達彦氏の類稀なる発想とは
最初の中継カメラはたった2台
日本テレビは1953年8月28日の開局翌日、29日から巨人戦の中継を始めた。この年に入社していた後藤氏は1年目からスポーツ班に配属され、中継を担当する。
現在の中継のカメラ台数は5~10台以上だが、後藤氏が入社した当時はわずか2台。バックネット裏の1カメ(メインカメラ)がバッテリーと打者を中心に撮り、1塁側内野席の上段に据えられた2カメが残り全てのプレーを撮っていた。心細いように思えるものの、後藤氏の持論は「野球そのものは2台のカメラで十分フォローできる」だった。
一塁側の外野席寄りに3カメが置かれるようになったのは1956年の開幕戦から。カメラの役割分担について後藤氏は当初、「2カメは内野中心、3カメは外野中心」と決めた。しかし、すぐに3カメの置き場所も役割も失敗だったと気づく。
例えば、1死ランナー三塁の場面でレフトに犠牲フライが上がると、2カメが打球を追い、3カメは左翼手による捕球とバックホームする様子を写す。直後にカメラは1カメに切り替わり、三塁走者の疾走から本塁上でのクロスプレーまでを撮るが、これでは当たり前すぎて視聴者に緊迫感や臨場感が伝わらないのだ。
後藤氏は考えた末、スリリングに映すなら、2カメが打球の放たれた瞬間から左翼手による捕球とバックホーム、走者の姿まで全てを追ったほうが良いという結論を下す。カメラを切り替えず、同一画面にするのである。人間の目線と同じだ。
3カメの置き場所を移すことにした。新たな場所は1塁側ダッグアウトの脇だ。そこに大きな穴を掘り、3カメと担当者が入れるようにした。人間を追うカメラだ。プレーは追わず、人間としての選手や監督たちを写すカメラである。
その後、3カメが杉下の落胆する姿を撮り、ベンチ内の表情を押さえた。この3カメの重要性は1958年から増す。巨人に超大型ルーキー・長嶋茂雄が入団したからだ。3カメはプレーそのものを撮らなくていいから、長嶋の姿を存分に追えた。
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