「西山事件」外務省女性事務官「悔恨の手記」に綴られていた悲痛な叫び 「西山記者と毎日新聞は私の最後のトリデである家庭までも破壊した」
書類をこっそり見せてくれないか
それからはおたがいに黙って、窓の外を過ぎ去っていく都会の煩雑な風景をながめていたが、まさか車の到着地点に、『ホテル山王』があろうとは想像もしなかった。しかも『ホテル山王』は、この間の旅館と違って、別段、いかがわしい環境の中にあるわけでもない。
ホテルの前に立つと、西山記者が、さも私を安心させるように、
「ここはよく仕事で疲れた時、体を休めるために使ってるんだ」
といった。男と女の間で、たった一度の経験ほどこわいものはない。決して西山記者にいとおしさや懐かしさをおぼえたはずもないのに、わずか一度の、しかも彼の強引さによる経験で、もう私は彼のいうままにホテルの一室に入っている。
部屋に入ると、彼は待ちきれなかったように、
「君と会えてうれしい」
と、私の耳元でささやいた。そして、この前と同じように、大げさな愛の表現を使って私を酔わせた。意思の弱かった私は、ふたたび彼に身を託してしまった。
不幸なクライマックスが急激にしぼみ、けだるさと罪悪感にさいなまれながら、私は身づくろいをして、帰り支度にかかった。その時である。西山記者が、いくらかきびしい目つきをして、私に「頼みたいことがある」と語りかけた。
「実はぼくは、近く記者としての生命を絶たれるかもしれない。ぼくは記者としての生命を絶たれるんだ。もうダメになってしまうんだ。外務省の書類を見ないと記事が書けないんだ。安川(審議官)のところへ来る書類をこっそり見せてくれないか」
いい終わった時、西山記者は手を合わせて拝む格好をしていた。私はいっぺんに目が覚めたような気持になった。そして、
「そんなことはできません」
とほとんど叫ばんばかりにいい放った。私は仮にも安川審議官の「付き」である。その私が、どうして安川審議官のところへ来る外務省の書類を隠れて他人に見せることができようか。
しかし、西山記者はなかなかあきらめない。それどころか、私の肩に手をかけ、顔を近づけて「頼む、な、頼むよ、な」と繰り返し、
「ぼくを助けると思って頼む。安川にも、外務省にも絶対に迷惑をかけはしないから。ただ参考にするだけなんだ。見せてもらった書類はその場で返すから……」
と、私の言い分など絶対に聞き入れない姿勢を見せた。いや、もし私が断り続けたら、あのホテルから一歩も外に出してもらえなかったかも知れない。「なあ、頼む、なあ、頼む」を執拗に耳元でささやかれ、とうとう私もコックリとうなずいてしまった。いまさら、私がだらしなかったといっても始まらないが、その時も自分の弱さがつくづくいやになった。
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