昭和最大の不倫スキャンダル「西山事件」は52年前、新宿の「連れ込み旅館」から始まった 外務省女性事務官の「手記」に綴られていた“悔恨と憤怒”
運命の私鉄ストライキ
〈西山氏は、毎日のように審議官室にやってきて、顔パスで入れるほど安川審議官に信頼されていた。Aさんは《のちに法廷で、私がいかにも西山記者に好意を抱いていたかのような証言や弁論があったけれども、私は「この方は安川審議官の大事な人なんだ」と考え、職務上親切にしたに過ぎない。それを不遜な西山記者は、私が愛情を示したなどと誤解していたのではあるまいか》と憤りを隠さない〉
西山記者に誘われた日を私は決して忘れない。昭和四十六年五月十八日。ちょうどその日は私鉄がストライキをやり、われわれが霞が関から乗る地下鉄もまた止まっていた。
実をいうと、西山記者から“誘い”を受けたのは、その日が最初ではない。以前にも何回か、私と、同室の男の同僚に、
「いつもお世話になっているので、一度食事に招待しよう」
といってくれた。しかしそれが一度も実行されなかった。同僚とよく、
「空手形かもしれないわね」
と笑い合ったものだった。
ところが、五月十八日にはその手形が確実に決済された。しかも、私の運命と引換えに彼の卑劣な“招待”は実現されたのである。
いつものように審議官室から出て来た彼は、私にこういった。
「みんな、足がなくて困ってるんじゃない? 送ってあげよう」
私は即座に「結構です」と断ったが、同僚の男の事務官が、
「ぼくはいいから、Aさん送ってもらいなさい。せっかくああおっしゃってるんだから……」
としきりに勧めてくれる。そこでようやく送っていただくことに意は決したが、とっさに、「毎日新聞社はどこにあったかな」と考えた。私は「付き」という職務上、記者の方にあまりご迷惑をかけてはいけないと思ったのだ。なるべく、毎日新聞社のある竹橋に近い東京駅か有楽町で車を降ろしていただいて、あとは国電で浦和の自宅まで帰ればいい……。
だが、西山記者の車はなかなか来なかった。
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