昭和最大の不倫スキャンダル「西山事件」は52年前、新宿の「連れ込み旅館」から始まった 外務省女性事務官の「手記」に綴られていた“悔恨と憤怒”

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 元毎日新聞記者の西山太吉氏が、2月24日、心不全のため北九州市の介護施設で亡くなった。91歳だった。スキャンダル発覚後、猛バッシングを受けた西山氏であったが、平成に入って、西山氏がスクープした沖縄返還に伴う日米密約の存在を示す文書がアメリカで見つかって以降、再評価する動きがあった。いま言論界は追悼ムードだが、忘れてはならないのは、西山氏に“情を通じて”機密文書を渡したことが罪に問われ、職と夫まで失ってしまった外務省女性事務官の存在である。騒動の真っ只中、女性事務官が「週刊新潮」に寄せた手記を紐解きながら、昭和史に残る不倫スキャンダルを振り返りたい。

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私の弱さが原因だった

【「週刊新潮」昭和49(1974)年2月7日号「外務省機密文書漏洩事件 判決と離婚を期して 私の告白」ダイジェスト版の前編】※掲載時、女性事務官を実名で報道していましたが、本稿ではプライバシーに配慮し匿名にしました。

〈事件のあらまし〉

 いわゆる外務省機密文書漏洩事件とは、昭和四六年六月に調印された沖縄返還協定に絡んで、“黒い疑惑”があるとして、毎日新聞西山太吉記者が、愛知(揆一氏。当時、外務大臣)・マイヤー(当時、駐日大使)会談の内容と思われるものを毎日新聞紙上に発表したが、さしたる反響を得られなかった。

 が、その後、国会で、社会党の横路孝弘代議士が質問、そのとき、このマル秘文書のコピーを横路代議士が外務省関係者に見せたことから、機密漏洩が明るみに出た。

 問題の文書を西山記者に渡した、といってA外務省事務官(41・当時)が警視庁に出頭。西山記者がA事務官と「情を通じて」、この文書を手に入れたことが判明。西山記者も逮捕された。

 毎日新聞は、「知る権利」を振りかざして応戦したが、西山記者の取材方法は、国民のみならずジャーナリズム界に多大なショックを与えた。

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 まるで人生が、すべて過ぎ去ってしまったかのような二年間であった。

 もし私が、こんなにも世間を騒がせた、いわゆる「外務省機密文書漏洩事件」などに巻き込まれなかったなら、おそらくいまなお外務省のごく平凡な女性事務官として、霞が関に毎日出勤し、書類や電話の応対に余念がなかったろう。大臣や次官、あるいは外務審議官などの秘書を、外務省では「付き」というふうに呼ぶが、私も相変わらずその「付き」の一人に数えられていたに違いない。

 事件当時、私の上司でいらした安川外務審議官が、現在、駐米大使をお務めだから、たぶん、私は後任の新しい外務審議官の「付き」になっていたかも知れない……。

 いや、もうよそう。そんなむなしい想像をいくら繰り広げたって仕方がない。愚かな女の感傷だといわれれば、一言もありはしない。いまさら、外務省が懐かしく、私の“誇るべき職場”だったといっても、誰が信じてくれよう。その懐かしく、誇るべき職場を私自身が深く傷つけてしまったことは世間周知の事実だし、そのために私は法の裁きまで受けたのである。

 たしかに今度の事件は、私の弱さが原因だった。しかし、決してそれがすべてではない。私の弱さ以上に、もっとあくどく、卑劣な力が「知る権利」の名において私をがんじがらめにした。弁解する気なんぞない。ただ、私にふりかかったいまわしい事実だけは、私の弱さとともに神さまに懺悔するような気持ちで、いまハッキリと告白しておきたい。

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