開幕わずか15試合で辞任も…あまりに“超短命”に終わった「監督列伝」
“謎の老人監督”
伝統的に監督交代劇が多い阪神だが、開幕からわずか33試合で辞任したのが、大阪タイガース時代の岸一郎である。
1955年、松木謙治郎監督退任後の新監督は、4番打者兼助監督の藤村富美男が有力視されていた。
ところが、新監督として発表されたのは、プロ球界とは無縁で、早稲田大、満鉄の投手として活躍後、30年ものブランクがある60歳の“謎の老人監督”だった。
この人事は、一説では、親会社・阪神電鉄の野田誠三社長が、運輸省幹部との会食の際に「新監督を探している」と口にしたところ、岸を紹介されて、それを断り切れなかったからといわれる。また、本人自ら電鉄本社に手紙を書いて売り込んだとする説もあり、監督就任の経緯ははっきりしていない。
チームが世代交代期を迎えるなか、「たとえ藤村でも先発から外す」と積極的に若手を登用した無名の指揮官は、藤村らベテランとの対立を深めていく。
開幕3戦目、4月7日の大洋戦で事件が起きる。同点の7回2死、藤村が四球で出ると、岸監督は代走を告げた。試合の展開いかんでは、もう1打席回ってくる可能性があった藤村は代走を追い返し、一塁ベースからテコでも動かない。チーム内のゴタゴタを象徴するシーンだった。
チームもその後、巨人に9連敗するなど、首位・巨人から8.5ゲーム差の3位(16勝17敗)と、なかなか浮上のきっかけをつかめない。
そして、“最後の日”は突然やって来た。5月21日の中日戦を前に、遠征先の名古屋で田中義一球団代表が全選手を集め、「岸監督から持病の痔が悪化してきたため、しばらく休ませてほしいと申し入れがあった」として、藤村代理監督への交代を発表した。
当時の評論家に「大正時代の野球」と揶揄されるなど、“失敗者”のイメージが強い岸監督だが、その一方で、抜擢した若手がいずれも結果を出したことから、「監督としての功績が過小評価されている」とする声もある。
「監督が引けば、いい風が吹く」
一方、過去に優勝実績がありながら、復帰1年目に53試合で辞任したのが、2014年の西武・伊原春樹監督である。
西武監督就任1年目の2002年、年間90勝でぶっちぎりVをはたした伊原監督は、その後、オリックスの監督を経て、11年ぶりに古巣・西武に復帰。「91勝を目指します」と球団新記録での優勝を宣言した。
だが、“鬼軍曹”の管理野球は、渡辺久信前監督の「叱らないで選手を伸ばす」野球に慣れた選手と、十分意思の疎通を図ることができなかったようだ。
チームは14年シーズンの開幕直後から最下位に沈んだまま。同15日のロッテ戦では、「涌井はあんなもの(「持っても5回まで」という意味)」と口撃した涌井秀章にリベンジの1敗を喫するなど、“口は禍の元”を痛感させられた。
そして、6月4日のDeNA戦に1対0と勝利し、20勝33敗となった試合後、伊原監督は「就任時、『普通にやれば優勝する』と話したが、ここまで期待を裏切って、最下位を走ってきている。監督が引けば、いい風が吹く」と突然休養を発表した。
5月21日の巨人戦で8回まで2点をリードしながら、逆転負けしたことで、「僕の勝負運が弱いのかな」と思いつめ、「交流戦の対戦相手が一巡した時点で」身を引くことを決めたという。
だが、田辺徳雄監督代行にバトンタッチされたあとも、チームは43勝44敗4分と上昇気流に乗れず、5位でシーズンを終えている。
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