【袴田事件】死刑執行を停止させた森山法相発言 その裏にあった巖さんと社民党議員との珍妙な会話
「戦後最大の人権侵害事件」
一審の静岡地裁で巖さんの無罪を主張したものの、意に反して有罪・死刑の判決文を書かされた熊本典道裁判官(1938~2020)について、保坂さんはこう述べる。
「一審の静岡地裁で、45通の供述調書のうち44通は信頼性がないと証拠排除されるほど乱暴な捜査だった。(取り調べの問題点を判決の付言に盛り込んだ)熊本さんの訴えは裁判官としては異例のことです。さらに、彼は2007年にマスコミの前で『自分は間違っていた。袴田さんを死刑にしてはいけない』と訴えてくれました」
保坂さんが冤罪を確信したのは、巖さんが獄中で書いた手紙を読んだ時だという。
「手書きの圧倒的な量の感性豊かな素晴らしい文章で、これを書く男が殺人などするはずがないと確信しました。静岡地裁だけは英断で釈放しましたが、検察が争って再収監しようとする可能性もあった。釈放されても半ば、袴田さんの心の中では拘禁されているような状態が続いている。国は袴田さんが亡くなるのを待っているのです。彼らにとって人権侵害の最後の仕上げが袴田事件なのです。この事件は司法関係者が検察司法と一体となった戦後最大の人権侵害事件だと思っています。『疑わしきは被告人の利益に』という原則もまるでひっくり返ってしまっている。やってる(殺している)という確定的な証拠はまったく出ていない」(同)
さらに保坂さんは、こう力を籠めて語る。
「村山さん(2014年に静岡地裁で再審開始を決定した村山浩昭裁判長)がはっきり言った通り、捜査機関の捏造以外の何物でもない。日本では司法が一度断罪したものが絶対に正しいという悪しき無謬(むびゅう)性があり、司法関係者らは再審など必要なく、(三審までの)判断がすべて正しいと思っている。だから再審開始にとことん反対し、過ちも認めない。これでは冤罪はますます出てくる。法務省の司法官僚、裁判所が大きな罪を犯している。それでも国民に申し訳なかったと首を垂れるようなことはしていない。当時の関係者は亡くなっていたりOBになっていて、その後は組織で対応している。当時の先輩たちの間違いに対して、警察や司法界の心ある後輩が率直に謝罪をすることが冤罪を生まない第一歩のはずです」
東京出身の保坂さんは、中学時代から政治活動に参加する早熟な男だった。全日制の高校を受験しようとすると、中学側がそうした活動を理由に内申書で推薦してくれず、受験ができなかった。仕方なく都立新宿高校の夜間部に通った保坂さんは「差別的待遇だ」と中学を訴えた。高校生が起こした裁判は「内申書裁判」として全国的にも有名になった。
3年ぶりのひで子さんと巖さんの面会を実現させた努力や機転、さらに巖さんとの見事な「裸の会話」も、10代で「教育ジャーナリスト」から出発し、市民との距離が近かった「たたき上げ政治家」の保坂さんだからこそできたことだと改めて感じる。現在、政権の中枢をなす二世、三世の「ボンボン議員」や、高学歴でキャリア官僚から国会議員になったような政治家たちには決してできることではなかっただろう。
註:波崎事件
1963(昭和38)年8月、茨城県鹿島郡波崎町(現・神栖市)の男性(当時35歳)が自宅で倒れ、病院に運ばれたが死亡した。遺体から青酸化合物が検出され、県警は殺人事件として捜査。別件で逮捕していた被害者の従姉妹の内縁の夫だった富山常喜さんを別の殺人未遂事件と合わせて殺人罪で起訴した。一審、二審とも死刑が宣告され、76年4月に最高裁で上告が棄却、刑が確定した。検察は青酸化合物と富山さんを結びつける証拠は出せなかった。富山さんが死亡保険の受取人になっていたことなどで疑われたが、保険会社の勧誘員がノルマで勝手に契約し、本人は知らなかった可能性も出てきた。富山さんの再審請求は2度とも棄却され、3度目の再審請求準備中の2003年9月、東京拘置所で86歳で病死した。刑法学者の団藤重光東大名誉教授(1913~2012)は、最高裁判事としてこの裁判を経験したことで死刑廃止論者となった。