1985年「阪神V戦士」佐野仙好、プレー中の頭部骨折から見事に復活した“不屈の野球人生”

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甲子園での復活アーチ

 5月31日に退院した佐野は、6月末から本格的な練習を再開し、7月2日のヤクルト戦からベンチ入り、「また野球ができるだけでもうれしい」と感激に打ち震えた。

 翌3日のヤクルト戦ダブルヘッダーの第1試合、8回から途中出場し、本拠地・甲子園のレフトを守った佐野に、3万人のファンから惜しみない拍手が贈られた。

 そして、第2試合に6番レフトで出場し、2回に先頭打者として65日ぶりの打席に立った佐野は、スタンドの大歓声を背に、安田猛のストレートをライナーで左翼席に叩き込んだ。野球の神様からのプレゼントとも言えそうな一打に、佐野は「これでやっていける」と自信を取り戻した。

 筆者は以前、阪神スカウト時代の佐野氏を取材する機会があったが、この復活アーチについて、「ファンの皆さんの応援は、自分の力以上のものを出させてくれると実感させられました」と語っていたことが、とても印象的だった。

 同年は規定打席不足ながらプロ入り後初めて打率3割(.305)をマーク。1981年には初タイトルの最多勝利打点(15)に輝き、82、83年には2年連続全130試合フル出場と、押しも押されぬ主力に成長した。

 さらに85年にも、佐野は“意外性の男”として、随所でチームに貢献する。開幕から1勝1敗で迎えた4月16日の巨人戦では、1対2の4回2死一塁、二塁後方に高々と飛球を打ち上げたが、ショート・河埜和正のまさかの落球で、ラッキーな同点劇を呼び込む。直後、火のついた猛虎打線は、一挙7得点で試合をひっくり返した。

 翌17日の巨人戦は、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布が槙原寛己から伝説のバックスクリーン3連発で知られているが、実は6番・佐野も“バックスクリーン4連発”を狙っていた。結果は遊ゴロに倒れ、「打つ方向は合ってたんだけどなあ……」と残念がった。

ラッキーゾーンに転落

 だが、5月20日の巨人戦では、シーズン初のスタメン落ちの悔しさをバネに、「出番があれば、絶対に打ってやる」と、0対5の7回に因縁の槙原から逆転につながる代打満塁弾を放ち、「あの一発はちょっと目立たせてもらいました」と顔をほころばせた。

 また、5月4日の中日戦では、宇野勝の左翼への大飛球を金網によじ登って捕ろうとした直後、ラッキーゾーンに転落。本塁打は阻止できなかったものの、けがを恐れない積極果敢な守備は健在だった。

 そして、引き分けでも優勝決定という10月16日のヤクルト戦、2点を追う9回に先頭の掛布が1点差に迫る左翼ポール直撃ソロを放ったあと、1死三塁のチャンスに、「バックスクリーン3連発後の打席のときより何倍もプレッシャーがかかった」という佐野が値千金の中犠飛を放ち、自らのバットでチームの21年ぶりリーグ優勝を決めた。

「プロで優勝、日本一というのは、なかなか味わえないこと。(同年の日本一も含めて)現役で体験できたのは、運が良かったと思います」。

 現役最後の出場は、89年10月7日の巨人戦。「プロに入ったときから、巨人戦で終わりたいと思っていたから、幸せでした」と完全燃焼した38歳のベテランは、「16年間もよくやってこれたと思います。川崎球場でフェンスにぶつかったときは、これで野球もできないなと思ったけど……」と、大きな苦難を乗り越えた末に栄光を掴んだ激動の野球人生をしみじみ振り返っている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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