1985年「阪神V戦士」佐野仙好、プレー中の頭部骨折から見事に復活した“不屈の野球人生”

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野球生命にかかわるアクシデント

 現在の野球場は、選手のけがを防止する目的から、外野フェンスに衝撃を緩和するラバーの設置が義務付けられているが、かつてはコンクリートだった。そのラバーが設置されるきっかけを作った男として、今も語り継がれているのが、阪神の名外野手・佐野仙好(のりよし)である。【久保田龍雄/ライター】

 1974年、ドラフト1位で阪神に入団した佐野は、初めは三塁手だったが、同期のライバル・掛布雅之との定位置争いを経て、76年のシーズン終盤からレフトにコンバートされた。

 翌77年も開幕から主にレフトで先発出場を続けていたが、4月29日の大洋戦で野球生命にかかわる大きなアクシデントに見舞われる。

 1点リードの9回裏1死一塁、代打・清水透の左翼フェンス際への大飛球を背走しながら追った佐野は、ジャンプ一番好捕したが、勢い余って川崎球場のコンクリートフェンスに頭から激突し、崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。

 センターの池辺巌が心配して駆け寄ったが、「痙攣して、白い目をむいていた」。だが、そんな状態にもかかわらず、佐野はボールを掴んだまま離さなかった。

500通を超える励ましの手紙

 守備に就いていたナインはもとより、ベンチからも全選手が飛び出し、タイムを告げる余裕もなく、一路佐野のもとへと走った。

 その間に一塁走者の野口善男は、いったん一塁に戻ると、タッチアップして無人のダイヤモンドを1周、一気に同点のホームを踏んだ。

 佐野が救急車で運ばれたあと、阪神・吉田義男監督が「突発事故によってプレーヤーがプレーできなくなり、タイムが宣告される事例(ボールデッド)に当たる」と抗議したが、審判団は「インプレー」を主張して認めない。この結果、佐野は捕球したにもかかわらず、失策が記録され、試合は7対7で引き分けた。

 冒頭でも紹介したように、この事故がきっかけで、各球場の外野フェンスにラバーの設置が義務付けられるようになった。

 左前頭部骨折で全治1ヵ月以上と診断された佐野は、病院のベッドに横たわりながら、「もう野球ができないんじゃないか」と暗澹たる思いになった。

 病院には1日も早い回復を願うファンから励ましの手紙が次々に届けられ、500通を超えた。その中には「自分の分まで頑張ってほしい」という身体障害者のファンからの手紙もあり、「勇気づけられた」という。

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