僧侶、年商170億円の社長、現場監督も… 元プロ野球選手たちが語る驚きのセカンドキャリア
仏壇に供えてあったもの
葬儀は父親が、法要は藤岡が担当。仏壇の前に座ると視界に入る物があった。
「たくさんの阪神グッズが置いてあったんです。お嬢さんが大ファンで、レアなグッズとか選手直筆のサインとか。お父さんはぽっかり心に穴があいたようでとおっしゃって、何かできないかなと思っていました」
その年、阪神は快進撃を続け、秋には優勝を目前にしていた。阪神の試合日程を見ると、甲子園で行われる巨人戦で優勝が決まる可能性が高かった。藤岡は、同期入団で当時巨人の広報を担当していた藤本健治に連絡。チケットを取ってもらい、父親に手渡した。
「甲子園にお嬢さんの写真を持って行ってください」
驚き、感激していた。
「野球選手の頃は、結果を残そうと、“自分のために”を第一に考えていました。でも浄土真宗では、みんなの苦しみや悲しみを自分のこととして受け止める気持ちを教えているので、自分も少しは変わったのかなと思いますね」
同じ05年、若い選手に野球を教える活動を始めた。藤岡野球塾である。
「少年野球の指導を、素人同然のお父さんなどがやるので、遠回りしている子を目にしたんです。そこで経験豊富なスタッフをそろえてちゃんとした指導をしたかった。今はスリースターズ中学硬式野球団というチームを運営しています」
野球への恩返しができればという。
年商170億円
巨人で投手としてプレーした松谷竜二郎(58)は、建設会社「スチールエンジ」の社長を務める。34歳で建設業界に転じ、直近では今年3月開業の日本ハムの新球場「エスコンフィールド北海道」の工事に関わるなど、グループ企業を含め年商170億円を生み出す会社に成長させた。元プロ野球選手などアスリートを積極的に採用している。
「今だから言えることですが、肩を痛めて野球をやめたことがよかったと思いますね」
松谷は社会人野球を経て、88年のドラフトで巨人から2位指名を受け入団した。2軍ではノーヒットノーランを2度成し遂げるほどの実力はあったのだが、右肩を痛めてしまう。
「当時は1軍に槙原寛己さん、斎藤雅樹、桑田真澄といった鉄壁の先発投手陣がいたから、1軍で少々いいピッチングをしてもすぐに2軍に落とされる。だから少し肩が痛くても休まずに投げないと実績を上げられないんです。95年に近鉄に移籍しましたが、肩の故障が致命傷になりましたね」
98年に引退。将来のことを相談していた巨人OBの末次利光に、建設会社の経営者を紹介され会いに行った。まったく興味はなかったが、「君、建設会社の社長になったらどうだ」と言われて心が動いた。人に使われるのが嫌いで、いずれ社長になれば現役当時の年俸2千万円は稼げるだろう、と就職した。
「若い職人に“おまえ”呼ばわりされました。でも35歳の男が現場に入れば仕事のことを知っていて当たり前。知らなきゃ“おまえ、何しに来た”となる。発奮して仕事を覚えようと、協力会社の親方に『教えてください』と頭を下げ、平日はずっとそばにいて教えてもらいました」
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