僧侶、年商170億円の社長、現場監督も… 元プロ野球選手たちが語る驚きのセカンドキャリア

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東海地域で中日は…

 野口は続ける。

「09年の5月に結婚した妻の実家が渋谷で焼き鳥店を営んでいましてね。そこで串刺しなど仕込みを手伝わせてもらいました」

 妻も保育士の仕事で家計を支えた。

 11年、三重県の独立リーグ球団からオファーがあり、入団したのだが、半年足らずでチームが解散。11年秋にトライアウトを受けたが選に漏れた。

「その後、社会人野球チームを教えていたのですが、就職することにしました。結婚後ずっと不安定だったので、妻はサラリーマンのほうが安心するみたいで」

 14年に中日の先輩である小松辰雄の紹介で、スポーツ施設などを建設する石黒体育施設に就職。本社のある名古屋市に居を移した。

 営業、そしてパソコンでのエクセル操作と初めてづくし。教えてもらいながら少しずつ覚えていったが、戸惑うことばかりだったという。そんな時、支えになったのは〈ドラゴンズの野口〉という看板だった。

「役所関係を回ることが多かったのですが、営業先の開拓のために業界の会合にも顔を出したんです。東海地域では6割ぐらいの人はドラゴンズが好きで、僕のことも知ってくださっていたので助かりましたね」

「選手人生は終わったけれど…」

 すぐには仕事につながらなくても、名前を覚えてもらえ、しばらく後に発注がくることもあった。

「東海地域は僕にとっては“帰れる場所”なんです。地域に根ざした球団にいたことで、選手人生は終わったけれど、その後の人生にプラスになりました」

 17年に縁あって入社したカミヤ電機でも、ドラゴンズの看板は営業に有利に結びついている。

 朝6時に自宅を出て、夜7時前に帰宅する規則正しい毎日を送る。時間があると、7年間の不妊治療の末に授かった一人娘と遊ぶ。

「ゲームをして娘が負けると、勝つまで『もう1回!』とか言うんです。妻は負けてあげなさいと言うけど、僕はやらないです。勝てない時には勝てないこと、そして自分で勝つことを教えたいから。何でも思い通りにいくと思ったら人生うまくいかないから」

 その言葉には、野球人生で味わった経験が凝縮されている。

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