私が「障がい者の性介助サービス」を始めた理由…「輝き製作所」所長・小西理恵さんが語る
一般社団法人「輝き製作所」の所長、小西理恵さんは「障がい者の性」の問題に取り組む活動を行っている。時に自らが性介助サービスを行うが、彼女はいかにして現在の仕事を志したのか。『売る男、買う女』(新潮社)などの著書があり、夜の世界の仕事で働いた経験のあるノンフィクション作家の酒井あゆみ氏が、小西さんの半生を取材した。
前編【語られない「障がい者の性欲」… YouTube出演で注目された、介助サービスの知られざる仕事内容】からつづく
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【写真】障がい者の性事情を知り「悩んでいるお母さんおるやん」と小西さんは思ったという
障がい者を相手にした性ビジネスはお金になりにくい。そもそも対象となる「お客」の絶対数が多いわけではなく、サービスの担い手も少ない。小西さんが話してくれた「ボランティアにしてはいけないけれど、生活事情から高い料金も設定できない」というのももっともだ。
そうなると必然的に利益を度外視した活動になる。なぜ、小西さんはこんな奇特な道を歩むようになったのか。
彼女は、大阪市でお好み焼き屋を営んでいた祖母に2つ下の妹と共に育てられた。母は別に居酒屋を経営し、父は芸能関係のプロモーターをしていたために東京に住居を構えていた。両親は別居婚状態が続いていた。のちに離婚。祖母は小西さん姉妹をのびのびと育ててくれた。
小さい頃は「キャッツ・アイ」「シティーハンター」「うる星やつら」など、テレビアニメながら女性の肉体を強調するレオタードや、“もっこり”シーンなどが平気で地上波で流れていた時代だった。小西さんは振り返る。
「その時から性に対しての興味はありましたね。全然、特別なことじゃなく、普通のことなんや、って。学校のクラスの仲良し女子も、私と同じ感覚を持ってる子が多かったですね」
中学生になると友達とコンビニへ行っては、女性の裸や性にまつわる記事が載っている週刊誌を立ち読みした。同時にメタルバンドにも興味を持ち、バンドを組んだ。彼女の担当はギター。ライブハウスを借りて対バンを集め、ライブも定期的にやっていたというからなかなか精力的だ。そんな彼女を何も言わず援助してくれていたのはやはり祖母だった。高校生になると未成年でも警備員や飲食店などのアルバイト先を見つけては、家にお金を入れ、祖母になるべく負担がかからないようにしていた。
ポストに貼っていたチラシ
高校卒業後、バーで知り合った5歳上の男と実家近くで同棲生活を始めた。そして転機がおとずれた。
「アパートのポストにピンクチラシが入ってたんですよ。今はもうない、化石みたいなものですね(笑)。そこに書いてあったお給料の金額を見て『こんなにもらえるんや』って。それで妄想がふくらんじゃって。『これだけ貰えたら月にウン十万くらいになって、将来の為の貯金も、おばあちゃんにも仕送りできるな、って』」
いちおう16歳の時に、友達の先輩と初体験は済ませていた。「こんな感じなんや」と可もなく不可もなし、だったそうだ。
小西さんはピンクチラシにある電話番号にすぐに連絡をし、働くことになった。さすがに地元で働くには身バレが怖かったので、少し離れた店舗を希望した。知らない男性の前で裸になるのも、会ったらすぐに行為に及ぶのももちろん初めての経験である。普通は続けるか否か迷うもの。ところが彼女は、
「もう仕事が楽しくて楽しくて!そこのお店では夕方からラストまでいて、一日平均3万円ぐらい稼げました。徐々に知恵をつけていって、もっと稼げる大手グループに移りました。控室とかにポンと置いてあった風俗雑誌にデカデカと何ページにも載ってて、店舗数も多いところにあたりをつけて。同棲してた彼氏にはもちろん内緒にしてましたよ」
移籍したことで稼ぎも倍以上になった。当初月3万円だった実家への仕送りも、10万円に増えた。
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