「認知症の母からもらった“贈り物”が」「ボケた父に感じた“哲学”」 表現者二人が体験した介護のリアル 高橋秀実×信友直子
生まれて初めて聞いた父の怒号
高橋 信友さんは、87歳になるお母さんを、95歳のお父さんが介護する様子を「ぼけますから、よろしくお願いします。」(2018年11月公開)という映画としてお撮りになった。かつ同名のご本(新潮社刊)もお書きになりましたね。
信友 カメラを回している時、衝撃的なことがあると、映像ディレクターですから「もっとやれ」って、心の端で思ってしまう。父が本気で母を怒鳴ったシーンがありますが、私は生まれて初めて父の怒号を聞いた。あの時、娘としては止めなきゃいけないんじゃないかと、おろおろしましたけれども、結局、止めずに撮影を続けた。
高橋 映画監督として、ですね。
信友 映画を作った時に、実は自分の中で悶々としたところがあったんです。映画って、自分がその時感じたことを入れるとうるさくなる。それは、あくまで私の見方であって、観ている人の見方ではない。観客は、ご自身の親御さんや連れ合いの方などを重ね合わせながら観ているものなんです。だから、自分の気持ちを入れられなかったことへのフラストレーションがたまっていて、本のお話をいただいた時に、これで私が言いたいことを全部ぶつけられると思った。
救いか逃避か
高橋 1作目の映画を拝見しましたけど(2作目『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~』は昨年3月公開)、正直言って、認知症の映画ではなく、ご夫婦の愛の記録だと思いました。映画の中で主治医が「目に見えない二人の連係が働いている」とおっしゃっていましたが、その「連係」が映っている。お父さんとお母さんの間の引き合う力(引力)と反発する力(斥力)。それが周囲のモノをも配置している。お二人の宇宙が映し出された作品だと感じました。
信友 高橋さんの『おやじはニーチェ』を読むと、お父さまが便を漏らす場面がありますね。驚かれたでしょう。
高橋 いよいよやばいなと思いました、衛生的にも。
信友 そういう時が一番悲しくなりますよね。私は、母の尊厳もあると思って、糞尿のことはさすがに撮れなかったし、書いてもいません。やっぱりそのことが一番つらかった。娘としてしか見られなかったから。
ところで、書名にも「ニーチェ」とありますが、父親が認知症になってしまったことに対して救いを求めようと、あえてお父さまの発言を哲学的に捉えようとしたのでしょうか。
高橋 いや、父はもともとボケているのか、とぼけているのかよくわからない人なんです。たとえば「ここはどこ?」と質問すると「どこが?」と問い返す。「ここ」と答えると「ここってどこだ?」と逆に質問してくるんです。これって哲学的な問いですよね。概念としての「ここ」の所在ですから。子供時代の話をひたすら繰り返すのもニーチェの「永遠回帰」みたいですし。哲学を利用すれば父を理解できるんじゃないかと思ったんです。妻には「それは逃避でしょ」と言われましたが。
信友 やっぱり逃避なんですよね。救いという言い方はちょっとオブラートに包んだんですけど(笑)。
高橋 うんこが手についている時に、「うんこの実在とは何?」とか言ってる場合じゃないですからね。逃避といえば、父の散歩に付き合うのも一種の逃避だったのかもしれません。ご近所では「なんて親孝行な息子さん」と評判になりましたが、妻に「あなた仕事は?」と問われまして。要するに締め切りから逃げていた。散歩のほうが楽だし、介護という大義もあるし。
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