三十数年も紫禁城の後宮から一歩も出ずに、悪名高い「ひきこもり皇帝」が熱中したこと
中国の北京市の郊外にある「明の十三陵」。世界遺産にもなっている明朝皇帝の陵墓群である。中でも第14代皇帝の万暦帝の地下墳墓は、俗に「地下宮殿」と呼ばれ、人気の観光スポットになっている。
じつはこの万暦帝、「明は万暦に亡ぶ」と正史にも書かれたほどの「暗君」だったという。中国史の第一人者・岡本隆司さんの著書『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)から、その常軌を逸した事跡を紹介する。
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「鬼教師」からの解放
「万暦」という年号は明朝最長、西暦では1573年から1620年まで、半世紀近くもの長期にわたって続いた。帝が幼少で即位したからである。在位当初はしたがって、政治はできない。その10年間、代わって執政にあたったのが、内閣大学士首座の張居正(ちょうきょせい)である。
張居正は朱元璋・永楽帝を除けば、おそらく明朝で最も有名な政治家である。一大改革を断行したからで、北宋なら王安石にあたるといってよい。
かれは宮中の宦官と結託して実権を握った。宮中と関わりが深かったのは、幼少の天子の師傅(しふ)、つまり本来の内閣大学士の職務たる家庭教師という立場にもあったからである。そうした師弟関係は、それぞれ宰相とその主君になっても変わらない。張居正はそこで思う存分に手腕をふるうことができた。
張居正は万暦10年6月20日(1582年7月9日)に逝去、行年58。当時としてはめざましい治績をあげた鉄腕宰相だった。
生前の張居正は、万暦帝にとって師傅以外の何者でもなく、とても臣下とはいえない。あくまで厳格きわまる先生であった。現代にいわゆる「アカハラ」「パワハラ」は、昔なら普通当然のしつけ・教育であり、そこは筆者も経験がある。張居正はとりわけ厳しい鬼教師だったのであり、生徒の万暦帝は畏怖をつのらせ、ほとんど唯々諾々だった。
張居正が亡くなって、最も喜んだのは、誰より万暦帝であったという。師弟の関係が、一朝にして君臣に転化したからで、教育者としてはともかく、臣下としての張居正は、君主を苛(さいな)んだ逆臣でしかなかった。
紫禁城に引きこもって浪費三昧
帝は張居正が不在となって幸い、抑圧からの解放感に浸った。そこまではわれわれにも、よくわかる感情ではある。そしてそのまま、いわばタガの外れた状態で、サボタージュを貫いた。残り三十数年もの期間、ほとんど一歩も紫禁城(しきんじょう)を出ず、後宮にこもって過ごした、といってよい。ここまでくると、われわれ庶民の感覚では理解しづらく、やはり「中華帝国」の天子の地位は特異だとの感を深くする。
では、何をしていたか。まず自分のお墓を作るのに熱中した。地下宮殿をもつ壮麗な北京の定陵(ていりょう)がそれで、いまもその規模を残している。
北宋末代の徽宗(きそう)皇帝は天才的な藝術家で、その方面で一時代を演出し、多くの書画を後世に残した。そのために民を苦しめ、国を失っている。それに対して、明の万暦帝が国を亡ぼしかけてまで後に残したのは、規模ははるかに厖大(ぼうだい)ながら、この墓だけだった。同じ「亡国の君主」でも、やはり個性・時代の違いはあるらしい。
定陵をいかに豪華に建造するか。親政をはじめた当初の万暦帝の関心は、いわばそれだけに集中していた。そのために手持ち・手近の富と権力を惜しげもなく投入する。万暦12年(1584)の夏に着工、竣工まで6年の歳月と800万両の費用をかけた。
定陵が完成しても、以後の姿勢・行動様式はかわらず、一貫している。持ち前の浪費は来世のお墓にとどまらない。現世の俗事もひけをとらなかった。愛妃の生んだ福王(ふくおう)の婚礼費には、規定額の10倍にのぼる30万両、さらに後宮の調度品や衣装などに惜しげもなく金をつぎ込む。二の足を踏むことも、恥じることもなかった。「天性の浪費家」と評されるゆえんである。
「私物化」体制
万暦の初年は、張居正の厳しい改革で税収も豊かになって、財政に余裕が出てきていた。ところが親政後の万暦帝の無軌道な浪費と政治の紊乱(びんらん)で、貯蓄はたちまち蕩尽(とうじん)、財政も困窮に陥る。対外的な脅威も、もとより多額の軍費の支出を強いた。銀庫の歳入約400万両の3倍近い1000万両以上を費やしたという記録がある。当時の財政制度はわかりにくく、精確な統計はおぼつかない。とにかく財政が逼迫(ひっぱく)したのは明らかで、やがて巨額の増税を生み出した。
そんな情況に追い討ちをかけるように、紫禁城中の皇極・中極・建極の三殿が焼失する事件がおこっている。こうした費用は原則として、内廷費つまりは皇帝のポケットマネー・天子の家計から支出した。そうはいっても、天子の家庭の宮中と皇帝のオフィスの政府とは、ともに紫禁城内にあるので、往々にして財布は融通しあえる。内廷費と政府財政の区別があいまいなのは、「中華帝国」の歴代王朝では、多かれ少なかれ通例だった。
万暦帝も自身の奢侈(しゃし)をまかなうべく、私的な内廷費に公的な財政をあてることが多かった。むしろ公・私の間で、財源争奪の様相を呈したといってもよい。明朝が独自の「私物化」体制であったことも、その情勢に拍車をかけた。
「鉱税の禍」と明の滅亡
万暦帝は手許(てもと)が不如意になってくると、新しい手立てを考案、実践した。どんどん思いついて実行するから、決して暗愚ではない。われわれから見て、その明敏さを活用する方向がおかしかっただけなのである。
新たな収入を確保するため、あらためて自分の召使・手駒の宦官を活用しはじめた。その典型的な事例が「鉱税の禍」である。「鉱税」といっても、鉱山にかける税金ではない。「鉱」「税」それぞれ一字づつで「鉱山」と「商税」を指す。
鉱山とは銀のそれ、当時事実上のマネーだった銀を採掘、獲得しようというわけである。商税は読んで字のごとく、商業に従事する商人から、やはり銀で徴収する税金だった。万暦帝がそこに宦官を派遣して、災禍・騒擾が起こったのである。
鉱山に派遣された当の宦官は、天子のご威光を笠に着て、鉱脈があると言い立て、現地の住民に立ち退きを強制したり、金品をまきあげたりした。だがそれだけでは、とても足らない。すると今度は、あらためて全土各地の都市・マーケットに宦官を派遣、商税の徴収となった。富裕で最も銀を有したはずの商人からも、とりたてようとしたわけである。もちろん鉱山と同じく、力づくのものだった。
「鉱税」の宦官派遣は天子・万暦帝の私意によるもので、明朝政府の公式な政策では必ずしもなかった。それでも社会・民間に行政として執行され、「禍」をもたらしてしまうところが重要である。
これは「暗君」の暴政というだけでは、説明がつかない。そもそもトップダウン的な権力行使、あるいは誰にもとめられない専権は、張居正の場合とまったく軌を一にしていた。天子による天下の「私物化」という体制原理が存在、作用していたからである。担い手が強権をきわめた天子の先生に代わって、天子の忠実な下僕になったにすぎない。宰相に代わる宦官の施政であれば、明朝でそれまでに何度も起こっていた。以前のくりかえしなのである。
「鉱税の禍」は万暦帝の個性を通じて、それがいよいよ露呈した現象にほかならない。内容さえ問わなければ、万暦年間は即位当初から、ずっと変わらない枠組みのなかで政治が動いていたともいえる。
明朝は1620年に万暦帝が崩じてから、およそ四半世紀で亡んだ。最後の皇帝は自縊(じい)した崇禎帝(すうていてい)、万暦帝の孫にあたる。史家の一致した評価では、祖父の失政がその運命を決定づけた。
※岡本隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)から一部を再編集。