「数式を普通の文章のように読む」 日銀新総裁・植田和男氏の天才エピソード、教え子が“酒豪ぶり”も証言
赤プリのスイートルーム
中泉氏は当時「こんなに酒が強い人がいるのか」と驚嘆したという。
「ゼミの飲み会になると酒に酔ったような素振りを見せるのに、その実、全く酔っていない。泥酔したのを見たことがありません。ビールにブランデー、日本酒まで何でも飲みます。当時、草津や千葉の白子などへゼミ旅行に行くと、先生が一番酒が強いので深夜まで飲んでいる。カラオケもお好きでした。よく高橋真梨子さんの『桃色吐息』を歌っていて、その後、ゼミ仲間との飲み会ではその曲が先生の十八番ということになりました。ただ、さすがにいまは激しい飲み会はやっていないでしょうね」
別のゼミ生によれば、
「当時あった赤坂プリンスホテルのスイートルームを取って、ゼミ生と植田先生、差し入れを持ってきてくれるOBと朝まで夜通し飲む会が年に1回ありました。支払いは基本割り勘で先生が多く出すという感じ。学生は就職を控えているので、特に怪しいこともなく健全な会でしたが」
「生きた金融政策を語っていた」
植田氏は98年から05年まで、日銀政策委員会の審議委員を務めている。バブル崩壊後、日本経済が低迷にあえぎ、当時の速水優総裁により、ゼロ金利政策が導入された時期だ。
00年8月の金融政策決定会合では「ゼロ金利政策解除」に植田氏は反対票を投じている。結果的に、ゼロ金利は解除されるも、直後から景気が悪化。日銀は猛烈な批判を浴びた。
「言うべきことは的確、かつ最低限の言葉でお話しになる方でした」
とは当時の日銀副総裁だった藤原作弥氏。
「政策委員会の会議は日銀内の俗称“丸テーブル”で行われます。総裁がいて、脇に副総裁、そのまわりを審議委員で囲む。植田先生はいつも私の隣でした。何かの拍子でお互いに酒好きということが分かりまして、何度かご一緒し、植田先生行きつけのバーに行った記憶もあります。酔っても決して饒舌になったりはしないんですよね」
別の委員とアカデミックな論争になることもあった。
「植田先生は世界中の中央銀行のこともご存じでしたので、生きた金融政策を語っていました。例えば、(ゼロ金利政策を長期間にわたって行うと予告する)時間軸政策という概念を最初に提唱したのは彼なんです」(同)
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