【袴田事件】まもなく再審可否決定 「警察の捏造」と確信していた女性弁護士が明かすその手口

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ズボンは縮んだのか?

 田中さんら弁護団は、巖さんが穿くことができなかったズボンについて検証を重ねた。

「私たちは再審請求で、味噌に漬かったズボンが縮むことがあるのか間壁さん(共立女子大学・間壁治子教授)に鑑定してもらいましたが、(ズボンの素材の)ウールは全く縮むような材質ではなかった。私たちも糸を1本1本数えて、縦糸と横糸が生地の1平方センチに何本あるかといったことを調べました。夫が背広を仕立てる紳士服店にも協力してもらったりしましたよ」

 しかし、「ズボンが縮んだ」「被告人が拘置所生活で太った」といった検察の主張を横川裁判長は認めてしまったのだ。

「袴田さんも家族も一審は何かの間違いと思っていましたから、控訴審にものすごく期待していた。控訴審でも退けられ、ひで子さんら家族は衝撃を受けたのです」

 裁判所から鑑定を依頼された東京工業大の砺波宏明教授は3度の鑑定を行った。1度目は「ズボンの繊維はウールで味噌に漬かって縮むことはない」とし、2度目も「ズボンの元々のサイズは72・34~73・4センチ。事件当時に袴田さんが(普段から)穿いていたズボンは76センチで、(5点の衣類のズボンは)穿けない」との鑑定結果を出した。

 しかし、警察側が再三鑑定を依頼すると結果が変わってしまう。3度目の鑑定では、90度の熱風で強制乾燥させるなどしてズボンが縮んだことにしたのだ。巖さんが太ったためとも言われたが、事件当時に穿いていたズボンを控訴審の時点でも穿けることが判明している。

 だが控訴審判決は「太った」「裏生地が縮んだ」などの他に、この3度目の鑑定を採用して穿けない理由にした。弁護団が再審請求で依頼した真壁鑑定は砺波鑑定を否定している。

とも布の意味とは

 袴田事件が起きた1966年当時、田中さんは明治大学の学生だった。

「静岡の事件でしたが、当時はそんなに記憶に残らなかったですね。むしろ2年後に寸又峡(すまたきょう)で起きた金嬉老事件のほうがずっと世間を騒がせていましたよ」

 1968年に起きた金嬉老事件(註2)のことは、当時小学生だった筆者も記憶している。旅館に立て籠った男が腹にダイナマイトを巻いた姿がテレビに映し出され、爆発しないのかとハラハラしながら親とその映像を見ていた。

 田中さんによれば、袴田事件で最もわかりやすい警察の捏造は「とも布」だ。とも布とは、ズボンの購入時に丈を短くするために切り落した残りの端布のことである。

「とも布は5点の衣類が見つかった1967年8月31日の少し後の9月12日、警察が巖さんの実家の箪笥から見つけたもので、『ズボンと一致した』とされました。当時の弁護団は『ズボンととも布は一致しない』と主張したのですが、実際に一致していたのです。私たちも後に糸を1本1本数えて、切り口が合うかどうかなども調べていました」

 警察は5点の衣類と巖さんとをつなげるために、家宅捜索でとも布をでっち上げたと見られる。どこかでズボンを入手してそのまま味噌タンクに放り込むのではなく、わざわざ裾を切って、その切れ端(とも布)を準備していたということだろう。

 なぜ弁護団は「一致しない」と主張したのか。小川弁護士によると「弁護団が警察の捏造をまったく念頭に置かなかったため」だそうだ。鑑定で一致してしまい、弁護団がズボンは巖さんのものでないということに自信を持てなくなることにもつながった。

「母親のともさんが、(浜松にある巖さんの実家に)1人でいた時に『家宅捜索する』と言って警察(岩田竹治警部補ら2名)がやってきた。最初からとも布を持ってきたのに、いかにも箪笥を開いて初めて見つけたように装ったのです。ベルトや手袋も捜索目的としていましたが、事件直後には袴田さんの寮の部屋、逮捕時には実家も捜索していましたから、この段階になって新たに捜索するのは不自然です」

 さらにともさんは、それまでとも布の存在に気付いていなかったそうだ。

「当時の新聞に、袴田さんが(被害者の)橋本専務一家の葬儀に喪章をつけて参列している姿が写っています。お母さんは箪笥にその喪章があることは覚えていましたが、とも布が箪笥に入っているなんていう記憶は全くなかった」

 静岡地検は、とも布が見つかった翌日に冒頭陳述で犯行着衣を5点の衣類に変更した。

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