【高橋幸宏さんを偲ぶ】ピーター・バラカンがジャパン・タイムズの追悼記事に驚いた理由

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トミー・リピューマの秘話

 2017年2月、朝日新聞のデジタルマガジン「&[and]」は「MUSIC TALK」のコーナーに「今年70歳。今だからこそ伝えられること 細野晴臣(後編)」の記事を掲載した。この中で細野さんは「散開」の理由を次のように語った。

《とにかく多忙で、人の目にさらされ、心身ともに参ってしまった。音楽的には、早い時期にYMOで試みようとしていたことはやったという思いもありました。そして83年、「散開」したのです》

 高橋さんの死後、ジャパン・タイムズが「Yukihiro Takahashi: Style, substance and the knack for a beat」(電子版:1月21日)という追悼記事を配信した。そこで報じられた内容に、バラカンさんは驚いたという(註11)。

「YMOがデビューした時、トミー・リプーマ(註12)というプロデューサーがファースト・アルバムをリミックスしてアメリカで出しました。ジャパン・タイムズは、彼の助言がなければアルファレコードはYMOに関してあまりやる気にならなかったという書き方をしていたんです。トミー・リプーマが具体的に何を言ったのかはよく分からないけど、どうもアルファはYMOをあまり理解できていなかったようなんです。もしかしたらYMOは、アルバム1枚で終わっていたのかもしれません」

遂に訪れた「散開」

 バラカンさんは記事を書いた記者をTwitterで発見し、「この部分は誰から聞いた話なのか?」と質問メッセージを送った。

「そうしたら返信が来て、『高橋幸宏自身から、何年か前にインタヴューした時に聞いた』と言うんですね。幸宏が言っていたのなら間違いないと思いました。結局、特にポピュラーミュージックは、売り方次第ということです。YMOは日本で“逆輸入”的なイメージで売り出され、それがウケた。人に聴いてもらうためには、レコード会社は手段を選ばないというわけです」

 YMOが「散開」すると、細野さんと高橋さんはヨロシタミュージックから独立して新たに事務所を作った。

「幸宏と会うことは少なくなりました。その後は、何回会ったかな……。数年、全く会わないということも珍しくなく、彼のコンサートに行って楽屋でちょっと話すとか、ごくたまに食事をするとか、そのくらいの付き合いになりました」

 後半ではYMOの名曲「CUE(キュー)」と高橋さん、バラカンさんの関係、ソロアルバムを制作していた時の秘話、バラカンさんの死生観などについて話を訊いた。

ピーター・バラカンが語る「高橋幸宏さん」 忘れられない81年「ロンドンレコーディング」、YMOの「CUE」をなぜ好きだったか】に続く

註1:ピーター・バラカン氏「朝起きてPC開いたら幸宏さんのリクエストが次々と」高橋幸宏さん悼む(日刊スポーツ電子版:1月15日)

註2:SWITCH INTERVIEW 第68回 ピーター・バラカン(SWITCH Vol.38・2020年6月号)

註3:当時の社名は新興音楽出版社。1983年にシンコー・ミュージック、2004年にシンコーミュージック・エンタテイメントに改称

註4:1971年、加藤和彦、加藤ミカ、つのだ☆ひろ(当時は角田ひろ)により結成

註5:1971年にデビューしたイギリスのロックバンド。ボーカルのブライアン・フェリーが人気を博したほか、音楽家のブライアン・イーノがシンセサイザーで参加していたことでも知られる

註6:音楽プロデューサーの桑原茂一、ラジオDJの小林克也、俳優の伊武雅之(現・伊武雅刀)によるコントユニット。「増殖」では曲と曲の間にスネークマンショーによるコントが挿入された

註7:1955年、青森県出身のミュージシャン。1979年、YMOのワールドツアーにサポート・メンバーとして参加。主な楽曲に「春咲小紅」、「ラーメンたべたい」など

註8:1949年、神戸市出身のギタリスト。1980年、YMOのサポート・ギタリストとして国内およびワールドツアーに参加。編曲家として山下久美子、大江千里、本田美奈子などの楽曲を手がける。1998年、死去

註9:1932年、岡山県出身の映画監督。54年に松竹に入社し、59年に「愛と希望の街」で監督デビュー。83年に公開された「戦場のメリークリスマス」は、ビートたけしや坂本龍一、デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった。2013年、死去

註10:「ミュージックフェア」はフジテレビ系列で1964年から放送されている音楽番組。現在の正式名称は「SHIONOGI MUSIC FAIR」。「オレたちひょうきん族」はフジテレビ系列で81年から89年まで放送されたお笑い番組。「THE MANZAI」はフジテレビ系列で80年から82年まで単発の特別番組として放送されていたお笑い番組

註11:原文は以下の通り

《Sadistic Mika Band was the first Japanese rock group to do well overseas, although its label back home failed to capitalize on the success. That wouldn’t be the case when YMO exploded onto the scene a few years later, even if it took the intervention of U.S. record producer and music executive Tommy LiPuma to convince Japanese label, Alfa Records, to sign off on the project.》

註12:1936年、ニューヨーク出身の音楽プロデューサー。マイルス・デイヴィスやポール・マッカートニーなど多くの人気アーティストの楽曲制作に携わった。2017年、死去。

デイリー新潮編集部

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