【高橋幸宏さんを偲ぶ】ピーター・バラカンがジャパン・タイムズの追悼記事に驚いた理由
高橋さんの持つ多面性
バラカンさんは1980年の暮れ、ヨロシタミュージックに入社した。あくまでも社員の一人としてYMOに接することになったのだ。
「僕がシンコーで担当していたのは、海外の楽曲権利を預かり、それを日本で活用するという仕事で、それに限界を感じていたんです。ヨロシタは『やのミュージック』という著作権管理の会社も経営していて、日本のミュージシャンの楽曲を海外で展開してみようという仕事だった。うまくいくかは分からないけれど、やってみたいという気持ちはありました」
バラカンさんの仕事は本来なら、YMOのメンバーと日常的に顔を合わせる必要はなかった。しかし、次第にYMOの3人のほうが、バラカンさんを必要とすることが増えていったという。
「YMOの活動で、英語の知識が求められる場面があるわけです。メンバーが海外からミュージシャンを日本に招き、一緒にレコーディングをしたり、ライブで演奏したりする。そういう時に僕は通訳になりました。他にも、YMOの歌詞は基本的に英語だったので、レコーディングの最後のほう、歌詞作りの時に僕がスタジオに入って手伝っていました」
こうしてバラカンさんは、次第に高橋さんの“素顔”を目にすることが増えていった。
「基本的には真面目な人です。ただ、すごくユーモアがあって、バカなことで笑ったりすることが多かった。また、神経質な面、お茶目な面、几帳面なところ、いい加減なところ、色々な面がありました。人間は誰でも複雑なところがありますが、幸宏は全ての要素を持っているところがありましたね」
高橋さんと「オナラ」
訃報を伝える記事には、高橋さんの“スタイリッシュ”な一面を紹介するものが多かった。YMOのアルバムジャケットなど、デザインワークは高橋さんが中心的な役割を果たしたからだ。
特に知られているのは「赤い人民服」だろう。2枚目のアルバム「SOLID STATE SURVIVOR」のジャケットに使われたが、これをデザインしたのが高橋さんだった。
YMOのビジュアルコンセプトには高橋さんの美意識が強く反映され、細野さんも坂本さんもそのクオリティに納得していた──バラカンさんはそう指摘する。
「赤いマオスーツ、あのイメージでYMOは売れた。まさに、今で言う“ビジュアル系”です。幸宏はファッション・デザイナーとしても活躍しました。自分がどのように見られるか常に意識していた人でした。レコーディングで1カ月一緒でも、汚い格好をしているところは一度も見たことがありません。有名な話ですけど、『奥さんの前でオナラをしたことがない』と色んなところで書かれていました。僕はちょっと極端だと思いましたね(笑)。女房の前でオナラの一つぐらい気にしないのが普通。つまり、どんなに親しい相手でも、自分がどのように捉えられるか常に意識しているしるしということでしょう」
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