【高橋幸宏さんを偲ぶ】ピーター・バラカンがジャパン・タイムズの追悼記事に驚いた理由
販売戦略への疑問
「ギャラの話は、『これでいかが?』と訊かれて、『はい、いいです』って1分で終わった(笑)。すると『実はもう一つ相談がある』と言われ、『我々の事務所に来る気はないか?』と誘われたんです。でも、本当のところ、YMOは最初の頃、あまり好きじゃなかった」
バラカンさんは、YMOのレコードを制作していたアルファレコード(現・アルファミュージック)の販売戦略に疑問を持っていたという。
YMOのデビューアルバム「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」は78年11月に発売された。アルファレコードがアメリカのA&Mレコードと提携していたこともあり、翌79年5月、A&M傘下のホライゾン・レコードから米国盤が発売された。
「YMOはA&Mに所属していたチューブズ(The Tubes)というバンドの前座としてアメリカを回りました。その時にアルファレコードは雑誌記者を現地に飛ばして、『YMOが世界制覇』、『YMOのアルバムはアメリカで売れている』という記事をいっぱい書かせたんです。でも、アメリカでアルバムは全く売れていなかった。明らかな嘘で、そういう売り出し方が“クサ”かった。それに反発していたんですね」
“スカウト”されたバラカンさん
初期のYMOに関しては、サウンドも苦手なところがあったという。
「僕は音楽評論家ではありません。単なる音楽ファンとしても好き嫌いが激しい。そして70年代後半、ディスコミュージックの行きすぎたブームが僕は嫌でした。人気があるからラジオでよく流れるけど、『またあのビートか』と思っていた。あくまで僕の耳には、初期YMOもディスコにしか聞こえなかった。コンピューターで作った“ピコピコ”という音も軽薄で、YMOに対する興味はなかったんです」
だが、アルファレコードの販売戦略は成功した。79年9月に発売されたセカンドアルバム「SOLID STATE SURVIVOR(ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー)」はオリコンチャートの1位にランキングされ、国内セールスは100万枚を超えた。
バラカンさんが誘われた「事務所」とは、YMOが所属していた「ヨロシタミュージック」という会社だった。時期としては4枚目のアルバム「増殖(X∞MULTIPLIES)」(80年6月)が発売された半年後だったという。
「『増殖』は聴いていました。(コントユニットの)スネークマン・ショー(註6)の要素もあったし、彼らのサウンドもちょっと変わってきたなと思いました。シンコーを辞めることは決まっていて、当時のヨロシタは矢野顕子(註7)や大村憲司(註8)といった僕がいいと思っていたミュージシャンのマネジメントもやっていた。『これは面白いかもしれない』と入社を決めました」
[3/6ページ]