「デ・ニーロものまね芸人」、地方移住で見つけた「貯金残高30万円」でも幸せな生活
知名度上昇も、相方との関係が悪化
テルは「デ・ニーロの仕事がコンビの仕事に結びつけばいいと思っていた」という。実際に仕事は増えていったが、やがてコンビ間にズレが生じていった。
「解散する3年ぐらい前から、相方のケンキは“お前とはもうやりたくない”という感じだったんです。“頑張らない奴とはやれない”“お前のことは信用できない”と。ウケないのを俺のせいにし始めたり、“ネタを書いた”とライブの前日夜に FAX してきて、次の日、“覚えてないのか”って怒られたり。こんなにギャアギャア言われるんだったら、俺一人でやりたいと思って、最後の方はピンでやってました。相方から“俺が一生懸命ネタ書いてるのに、お前しかテレビに出れない”と言われたこともあったから、嫉妬、があったのかもしれません」
この点について、ケンキは「解散は、全て俺に責任があります」と言いながら、当時の心境を細かく話してくれた。そのケンキの話は「後編」で紹介する。
どーよの不仲は芸人の間でも有名になっていった。
「狭い楽屋でも全然相方と喋らないし、バチバチやってたから、後輩から“やりにくいです”と言われたこともありました(笑)。それぞれ別々に後輩と飲みに行って、俺はケンキの、ケンキは俺の悪口を言ったり(笑)。後輩、困っちゃいますよね」
テルによれば、解散後しばらくしてからケンキから連絡があり、また会うようになったという。
「“お前、すごかったんだな”と言ってくれました。子供を連れて、佐野にも来てくれましたよ」
「ずっと描いていられるんです」イラストレーターとしての仕事も
テルはデ・ニーロものまねの一方で、イラストの腕も知られていた。事務所ライブのチラシに芸人の似顔絵を描いたり、後輩の髭男爵の本にイラストを寄せるなどもしていた。
コンビ解散後の40歳の頃にはイラストの腕を磨こうと、パソコンとペイントソフトを購入している。
「ナマケモノなんで、家で仕事したいなぁと思って。営業とか収録に行くと、準備して電車で出掛けて何時間も経ってから帰ってきてヘトヘト。家で数時間集中してパパッとやれたら最高だなって(笑)。もともと絵を描くのが好きだったんですよ。ネタを考えていると“あー!もうダメだ!やだ!“ってなるんですけど、絵はずっと描いてられるんです。こっちの方が性に合っているんですね」
絵やデザインの才能は佐野に来てからも発揮され、佐野駅の前にはテルが描いたイラスト看板が設置されている。また佐野の佐の字をアルファベット風にデザインしたグッズも制作した。「NYZ」と書いてあるのかと思いきや、よく見ると佐野市の「佐」という、なかなか優れたデザインだ。工房で使われている机などもテルが自ら製作した。
次ページ:ブレイクしたほぼ同世代の錦鯉をどう思う? そして、貯金残高は?
[4/5ページ]