「デ・ニーロものまね芸人」、地方移住で見つけた「貯金残高30万円」でも幸せな生活
同級生のひと言から生まれた“デ・ニーロものまね”
ところで、良くも悪くもテルの人生を大きく動かしたデ・ニーロものまねは、どのように生まれ、芸として身につけたのか。そのきっかけは芸人になる前、高校時代にあったという。
「高校の同級生に、“おまえ、デ・ニーロに似てるな”って言われたんです。当時はデ・ニーロなんて見たこともないし、知らなかった。“来週テレビで放送するから見ろよ”って言われて、見たら不倫の映画でした。『恋におちて』だったかな。いい役者さんだなぁ、と思って、調べたらいい映画にたくさん出ていた」
「恋におちて」は日本では1985年に公開され、87年にフジテレビ系の「ゴールデン洋画劇場」で放送された。当時テルは18歳。ここからデ・ニーロにハマり、また大学在学中に芸人になろうと決めたことから、デ・ニーロ出演作を次々に見て研究を始めた。
「出演作を映画館やビデオで全部見て、マネできる仕草を探しました。一番“これ!”と思ったのは『ミッドナイト・ラン』(88年公開)の飛行機の中のシーンです。ものまねできるようになったのは、90年前後で20歳ぐらいの頃でした」
ものまね誕生から10年以上も封印した理由
テレビで突発的に初披露したのはそこから10年以上経った03年頃。
「テレビの最初は、確かウッチャンナンチャンさんの12月の特番です。モノボケコーナーで、サンタ帽子をかぶって“クリスマスを楽しむデ・ニーロ”ってやったら、内村さんは映画が好きだから、ドーンと受けました。それで“このネタ、ウケるんだ!”と思ったんです。実は、その前から芸人相手に楽屋や控え室で、遊びでやってたんですよ。“~するデ・ニーロ”って」
当時はコンビでネタをやっていたこともあり、一人で番組やライブに出演することがなかった。それもデ・ニーロものまねが表に出ない理由だった。そして、ウンナン番組の数ヵ月後、
「相方が仕事でライブに来られず、一人で舞台に出たことがありました。“俺一人で出るのかぁ。今まで一人で出たことないなぁ。何をやろうか……。そうだ!デ・ニーロをやろう!”と。タンスに入っていたピチピチのスーツを着て、髪をオールバックにして、まだサングラスは持ってなかったのでナシで。そのライブで“~のデ・ニーロ”ってやったら凄くウケたんです。そこから一気にデ・ニーロの仕事が来ました」
04年には、人気番組だった「とんねるずのみなさんのおかげでした」内の不定期コーナー「博士と助手 ~細かすぎて伝わらないモノマネ選手権~」や、年末に放送された「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」のスペシャル版「笑ってはいけない温泉宿一泊二日の旅in湯河原」など、お笑い界のトップの番組にデ・ニーロものまねで出演している。この頃からテレビでテルの姿を見る機会が一気に増えた。
コンビとしての仕事も増え「月に20日ぐらい仕事があるのがずっと続いていました。そのうちピンは5日ぐらい。最高月収? 80万円ぐらいですね。100万円を超えたことはなかったです」
[3/5ページ]