「戦死率は一般兵卒の2倍以上」――世界大戦で貴族たちを襲った「ノブレス・オブリージュ」の悲劇

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 戦争になれば、金持ちや権力者は安全地帯から高みの見物、最前線に立たされるのは庶民出身の一兵卒ばかり……現代ではそのようなイメージがあるが、かつては必ずしもそうではなかった。

 たとえばイギリスでは、軍務は「高貴なるものの責務(ノブレス・オブリージュ)」という考え方が根づいており、第1次世界大戦の際には、貴族たちが率先して最前線に赴き、その死亡率は一般兵卒の2倍以上だったという。

 歴史家の君塚直隆さんの新著『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)から、第1次世界大戦でイギリス貴族たちが味わった悲劇を紹介する。

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 イギリスで貴族たちのたそがれを決定づけたのが、ヨーロッパ大陸と同様に第1次世界大戦(1914~18年)であった。この大戦は19世紀までヨーロッパで主に見られていたような、貴族らを中心にした戦争とはまったく様相を異にしていた。端的に言ってしまえば、それまでの戦争は貴族出身者が多くを占める陸海軍の将校と義勇兵とが直接的に戦闘に加わるものであり、短期的な戦闘の後にこれまた貴族が大半を占める外交官によって講和が結ばれるという性質のものであった。
 
 ところがナポレオン戦争以後の100年間で殺戮兵器の殺傷力は急激に上昇し、貴族や一部の国民だけでは兵力として足りない状況となっていた。「総力戦(total war)」の時代の到来である。イギリスでも開戦とともに「高貴なるものの責務(Noblesse oblige)」を信じて、貴族やその子弟が大勢戦場へと駆けつけたが、彼らを待ち受けていたのはナポレオン時代の騎士道ではなく、瞬時に何十人も殺せる機関銃であり、性能が大幅に上昇していた砲弾の嵐であった。
 
 大戦が始まった1914年のわずか4ヵ月のあいだに、爵位貴族が6人、准男爵が16人、貴族の子弟が95人、准男爵の子弟が82人も命を落としていた。それは戦場に赴いた地主貴族階級男子の実に18.95%に相当する数字であった。

 4年に及んだ戦争はさらに多くの貴族たちの命を奪った。もちろん兵役を終えて無事に帰還した貴族たちもいた。しかし貴族やその子弟ともなると士官学校の出身者も多数いたため、従軍時に就くのは年齢等に応じて陸軍中佐以下の将校クラスであり、前線で自ら隊を率いて突撃する場合が多かったので、その死亡率は高かった。
 
 1914年には一般兵卒の死亡率が17人に1人(5.8%)であったのに対し、貴族出身の将校の死亡率は7人に1人(14%)という割合となった。4年にわたる戦争で、イギリスはなんとか勝利は手にしたが、貴族とその子弟は5人に1人が命を失った(全体の平均では戦死者は8人に1人の割合であった)。イギリス貴族たちはまさに自らの命と引き換えに「高貴なるものの責務」を果たしたのである。

 さらに究極の責務を果たした彼らを待ち受けていたのは、相続税の洗礼であった。爵位貴族家の当主や後継者が相次いで戦死したとき、100万ポンド以上の価値を有する土地財産を持っている場合には、いまや40%にも膨れ上がっていた莫大な相続税を支払わなければならなかった。さらに土地そのものに対する課税も上昇しており、戦場から無事に帰還できたとしても、貴族たちはそれまでのような広大な土地を保有できなくなっていた。

 1910年から22年にかけては、大戦後の土地価格の高騰とも相まって、イギリスでは大量の土地取引が見られている。それは一説には国土の半分近くにも及ぶ所有者の交代をもたらし、イギリス史上でノルマン征服(1066~71年)や修道院解散(1536~39年)にも匹敵する事態であったといわれる。地主貴族はもはやイギリスにおける百万長者の代名詞ではなくなってしまった。19世紀半ば(1809~79年)までは、百万長者に占める地主貴族の割合は実に88%にのぼっていたが、20世紀前半(1880~1914年)までにその数字は33%にまで減少してしまっていた。

 さらに土地を買い増やそうなどという地主階級は姿を消し、売るべき土地がない貴族は家宝を売って糊口をしのぐ有様となった。先祖代々受け継がれてきた金銀の食器はもとより、ラファエロやルーベンスなどの名画も次々とオークションで売られていった。さらに1920年代までには、かつては栄華を誇った貴族たちが所有するロンドンの屋敷も売られ、取り壊されていった。不動産に莫大な税金がかけられていったため、土地を売った貴族たちは海外の金融・証券市場への投資に転じ、地主貴族がますます減少し、証券・金融貴族が主流派を占めていく。

 第1次世界大戦が決定打となり、イギリスでも「貴族政治(aristocracy)」は「大衆民主政治(mass democracy)」へと大きく変容を遂げていった。1918年には男子普通選挙権(21歳以上)と女子選挙権(30歳以上)とが国政選挙において実現し、さらに1928年からは男女普通選挙権の時代に突入していった。中央では庶民院に占める地主貴族階級出身者の数が激減し、地方ではそれまで政府の裁量によって在地貴族が任命されることの多かった州統監が、州議会によって選出されるように変わった。州議会議員の構成にしても、地主貴族ではなく、実業界出身の中産階級が大半を占める状況へと変化していたのである。

※君塚直隆『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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