生誕100年・池波正太郎の小説はなぜ今も実写化が続く? 12歳から株屋で勤務、軍隊も経験…培われた人間観とは
「人間は良いことをしながら悪いことをしている」
『鬼平犯科帳』の中に生まれるサスペンスは、しばしば、盗賊たちがそうした生理に背を向けるために生じるものであり、『仕掛人・藤枝梅安』で梅安は、その約束ごとに帳尻を合わせるために「許せぬ悪」を闇に葬るのである。そういった意味では長谷川平蔵(鬼平)と藤枝梅安は、立場こそ違え、表裏の存在であり、このことは作者自身が彼らに言わせている「悪を知らぬ者が悪を取りしまれるか」とか「人間は良いことをしながら悪いことをしている」というせりふが端的に証明しているといえよう。
池波正太郎は、こうして描き出された主人公を「矛盾の表現」であるとしているが、このように捉えていくと『鬼平』『剣客』『梅安』と並行して書かれていった『真田太平記』はどうなるだろうか。
この大河小説は時間軸を武田家の滅亡から関ヶ原、大坂の陣を経て、真田信之の松代移封に至る40年間に据え、一族を離合集散させる戦国乱世の非情な側面を描いている。と同時に、真田をはじめとする武将たちも、畢竟(ひっきょう)私たちと同じ「一椀の味噌汁にも生の充実や幸福がある」と感じた一個の人間に他ならず、それこそ各々の身分と暮らしに応じ天下取りの野望に燃えて己れの生の充実をはかり、その過程で「良いことをしながら悪いこともし」て覇を競い続けたさまを描いた作品ということができるかもしれない。そしてその結果、彼らが衣・食・住よりも、世の中のもっと大きい生理である歴史をつき動かしていったといえはしまいか。
株屋時代に学んだもの
さて、池波正太郎は大正12年(1923年)1月25日、東京は浅草聖天(しょうでん)町に生まれた。父・富治郎は日本橋小網町の綿糸問屋に勤める通いの番頭だったが、池波が生まれた日、大雪が降ったので仕事を休み、赤ん坊の顔を見るでもなく「今日は寒いから、明日見ます」と言って、その日は2階から降りなかったという。
一風変わっていた父は、後に母・鈴と離婚。小学校を卒業する頃になると母が「小学校卒業だけで大いばりでやってゆけるのは株屋しかない」と決意、それにより池波は12歳で株屋の小僧となる。夕方の6時ともなれば自由の身となる株屋の暮らしは、住み込みで衣食住はすべて店持ち、月給5円で、使い走りをするたびにもらうチップが毎月、給料より多いという結構なもの。池波は、後年、幼少期に家は貧しくとも、人情味と季節感あふれる典型的な下町の暮らしをしたこと、株屋時代にさまざまな階級の人たちに出会ったことが、後に小説を書くようになってからどれだけ役に立ったかわからないと記している。
実際、この間、池波はさまざまな形で大人の世界へと触手をのばしている。“保米楼(ほめろ)”のビーフステーキ、“煉瓦亭(れんがてい)”のカツレツ、“モナミ”や“エスキモー”といったレストランでの洋食の発見は独自の味の冒険を試みていた池波を有頂天にした。とまれ、仕事が終わるや神田や銀座、日本橋あたりに出掛けて、映画や芝居、食事にと楽しい時間を過ごすという毎日が続いた。
その後、二・二六事件や日支事変下での相場の混乱をよそに遊ぶ金にも不自由せず、悪所にも通い出し、吉原・京町の大店、“角海老”の横丁を入って右側にある、桜花楼(仮名)のせん子がなじみとなるが、池波が出征する前に、母がせん子の所に行って「正太郎がながながお世話になりまして」と礼を言ったという有名な逸話が残っている。
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