明治期にはタピオカも運んでいた? 再び脚光をあびる「鉄道貨物」の150年
乱立する小運送事業者
3代目・歌川広重は1875年の新橋停車場の様子を錦絵に残しているが、そこには貨車・荷物を積み下ろす荷役ホーム、荷役作業に従事する作業員(仲仕)の姿も見える。
錦絵が作成された1875年は、奇しくも鉄道貨物における小運送業が市場開放された年でもあった。市場開放により、鉄道の小運送に内国通運(現・日本通運)が新規参入する。歌川広重の錦絵にも内国通運の半纏を着用した人物が描かれている。
市場開放されても鉄道貨物の売上規模が大きくなったわけではない。鉄道貨物が規模を拡大していくのは、1883年に上野駅をターミナルにした日本鉄道(現・JR東日本)が開業してからだ。
日本鉄道は旧大名家が大口の出資者となって設立された半官半民の鉄道会社で、東北本線や高崎線などを建設した。東北本線や高崎線は内陸地を走っているので、沿線の都市では海運事業者に物資輸送を頼ることはできなかった。こうした事情から、日本鉄道が走る東北地方や北関東では、鉄道貨物が勢力を伸ばしていく。
日本鉄道が線路を延ばしていくのと同時に、内国通運は主要駅に取扱店を出店。地方都市の豪商・豪農に対して代理店契約を結ぶこともあった。こうして小運送のネットワークは全国へと広がり、同時に鉄道貨物が盛んになっていく。
1889年に新橋駅―神戸駅間の東海道本線が全通すると、内国通運は定期送達便のサービスを開始。同サービスは従来の運賃よりも安く決められた時刻に届けるもので、鉄道貨物のサービスも充実していった。
1893年、内国通運は国内の鉄道網が拡大しつつあることを踏まえて取扱業務の主力を鉄道貨物へと転換していった。この頃から、鉄道貨物における小運送業者が増加していく。
事業者間の競争が起きることで、運賃が安くなることが期待された。しかし、実態は逆に動き、事業者の乱立により水増し請求やたび重なる誤配送、斤量超過(過積載)、抜き荷(密輸)が横行。鉄道当局から繰り返し譴責 される小運送業者も少なくなかった。
小運送事業者の乱立は物流の混乱を招き、それは日本経済を揺るがすことにもつながりかねない。そうした事態を懸念した鉄道当局は、1919年に解決策として小運送業者の公認制度を創設。それでも小規模な小運送業者は多く、1926年には鉄道省(現・国土交通省)運輸局の局長だった種田虎雄が小運送事業者たちに統合を指示する。これは小運送の業者を合同させることで物流の効率化を図る狙いが含まれている。
鉄道省が主導した小運送事業者の再編成によって、1928年に内国通運・国際運送・明治運送の大手3社が合併。新会社として国際通運が誕生する。国際通運は1937年に半官半民の日本通運へと改組。半官半民とはいえ、日本通運は物流という国防上に関わる業務を担っていただけに国策企業と言っても過言ではなかった。
日本通運は国内の物流を独占する国策企業になったわけだが、敗戦がそれを大きく変える。GHQの民間運輸局は経済の民主主義化に取り組み、日本通運は民間企業へと改組させられる。以降、小運送に多くの事業者が参入してくるが、道路整備が進むにしたがって小運送の主力はトラック輸送に移っていった。鉄道貨物は、ここから冬の時代へと突入する。
国鉄は貨物列車の売上を維持しようと、貨物列車の高速化に取り組む。1954年には有蓋車のワム90000形が登場。ワム90000形の導入により、それまで時速65kmだった貨物列車の最高速度は、時速75kmにまで引き上げられるようになった。その後も技術革新で貨物列車の運行速度は上がっていく。
また、1975年には私有コンテナ制度が発足。企業がコンテナを所有することで、輸送スケジュールの弾力化が図られるようになっていった。
こうした試行錯誤を繰り返したものの、貨物輸送量は上向かなかった。そして、1987年に国鉄分割民営化を迎える。国鉄は地域別の6社に分割され、JR貨物は各社の線路を間借りする方式が採用された。JR貨物がややこしい会社になったのは、分割民営化の議論で鉄道貨物は歴史的な使命を終えたと総括され、不要論が根強かったことに起因している。
[2/3ページ]