日本初のプロ卓球選手・松下浩二が明かした「奇跡の逆転劇」の裏側 なぜ会社を辞めてプロの道に?(小林信也)
強い弟を倒す
だが、足りないものがあると松下は気が付いた。
「まだ日本一になっていない、世界選手権のメダルもない。まずはバルセロナ五輪の代表になろう」
五輪に出るにはアジア最終予選で勝つ必要がある。そのための国内予選が最初の難関だった。
「代表決定戦の相手が双子の弟・雄二でした。高校、大学ではほとんど雄二に負けている。弟の方が強かった。でも、僕には絶対負けられない理由があった。雄二にはそれがなかった。僕は『勝ったらプロになる。負けたらサラリーマン』、そう決めて、人生を懸けて出た大会だから」
秘策もあった。松下はカットマン。通常は守備的で自ら攻撃を仕掛けない。が、中国には機を見て仕掛ける攻撃型のカットマンがいた。その戦術を打倒・雄二の切り札に据えて臨んだ。
「雄二は面食らったでしょうね。それまでやったことのない作戦ですから。見事にはまって勝てました」
人生の勝負で弟を倒した松下は、アジア最終予選も勝って五輪代表の座を得た。
独仏中でもプレー
1993年4月、プロ転向が認められ、日産と契約。年俸は420万円プラス出来高。額は大きくないが、「プロとしてやれるのがうれしかった」。そして迎えた93年度全日本選手権男子シングルス。松下は負けるわけにいかなかった。しかし、準々決勝の伊藤誠戦で絶体絶命の土壇場に追い込まれる。1対2で迎えた第4ゲーム、14対19からマッチ・ポイントを奪われたのだ。
「伊藤に20点目を取られて、負けたなと思った。でも、ボールを拾いに行く時、プロ転向を応援してくれた人たちの顔が目に入った。『プロならあきらめちゃいけない』、そういう強い思いが湧きあがったのです。
自分は日本で一番練習している。朝の6時から夜12時まで。朝10キロ、昼10キロ、夜10キロ、一日3回走ってもいた。カットマンの大先輩・高島規郎(のりお)さんが合宿に付き合ってくださって指導も受けた。負けるわけにはいきませんでした」
全部仕掛ける、自分からポイントを取りにいく。そう決めた松下は、仕掛けたサーブを全部決め、8連続ポイントを奪って引っくり返した。奇跡と呼ばれる逆転劇。準決勝も決勝も3対2の接戦で制し、初めてシングルス日本一に輝いた。
30歳になる時、世界最高峰のドイツ・ブンデスリーガに挑戦。ドイツで3年、フランスで1年、中国で2年、再びフランスとドイツに戻り、それぞれ1年ずつプレーした。
「強い選手と毎日練習できる環境があれば、間違いなく強くなる」、松下は自分の経験を後輩に伝えた。水谷隼らが14歳でドイツ留学する際、松下は率先して支援した。そして、松下を応援するために生まれたデュッセルドルフの日本人グループが現地で温かく水谷らを支えた。松下の築いた礎(いしずえ)が、いまの卓球日本隆盛につながっている。
[2/2ページ]