日本初のプロ卓球選手・松下浩二が明かした「奇跡の逆転劇」の裏側 なぜ会社を辞めてプロの道に?(小林信也)
「大学3年の頃、卓球への情熱を失いかけていました」
Tリーグの初代チェアマンを務めた松下浩二が意外な話を始めた。
「日本リーグの強豪・日産自動車に『卓球をお腹いっぱいやれるからおいでよ』と誘われた。その言葉が全然響かなかった。卓球を続けてもメシが食えるわけじゃない。しっかり仕事をして、将来は社長になりたかった。それで仕事もできる協和発酵を選んだ」
大会社の社長が「人生の目標」だった。ところが、
「入社3カ月で社会の厳しさを知った。僕は課長にもなれないなと。上司は東大、隣の先輩も東大、斜め向かいは早稲田、レベルが違いすぎました。みんな、僕が1時間かかる仕事を10分で済ませる、会議での発言も素晴らしい。僕は、ここでは市内大会レベルだな、と落ち込みました」
調べてみると、卓球部の先輩たちは部長にもなっていなかった。大半は現役を退くと会社を辞め、卓球関連の仕事に就いていた。
「ここは自分のいる場所じゃない、そう思った時、頭に浮かんだのがスウェーデンのプロ・リーグでした」
大学4年の時、何かと世話になっていた今野昇(現「卓球王国」編集長)に「一度、スウェーデンに行った方がいいよ」と勧められた。スウェーデンが中国を破り、世界王座に就いた時期だ。運よく現地のプロチームと話がまとまり、松下は1シーズンそこで過ごした。
「行ったのはファルケンベリという町のチーム。エースのエリック・リンドはオリンピックの銅メダリスト。家に行って驚きました。300坪くらいの土地に広い庭、家は10LDKくらい。真っ赤なBMWのスポーツカー。卓球でこんな暮らしができる。町を歩けば行き交う人に声をかけられる」
夢のような現実が目の前にあった。しかも、
「リンドは、『今日は集中できない』と言って帰ったりする。でも翌日には鬼の形相で練習する。そういう姿にすごく影響を受けました」
日本ではタモリに「卓球はネクラ」と笑われ、競技人口が減っていた時期だ。
「プロを目指そう」
松下は決心した。
「一番先に手を挙げたら、男として価値がある生き方じゃないかと思った」
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