岸田家にとって「政治家は家業」同然…外遊先で“観光三昧”の「翔太郎秘書官」を待ち受ける苦難
岸田家の家業は政治
岸田首相も翔太郎氏も、共に緊張感が欠如していたのだとすれば、《改めて徹底》させても無意味だろう。なぜなら、まずは緊張することから始めなければならないからだ。
山井氏は「大臣へ向けた土産購入ではなく、国民へ向けた仕事をさせるべきだ」と皮肉交じりにアドバイスしたが、同感という有権者は多いに違いない。
「岸田首相や翔太郎さんに緊張感が欠けているのは、岸田家が3代にわたって続く政治家一家ということも大きいのではないでしょうか。政治が家業同然になっており、地元の有権者は黙っていても票を入れてくれます。選挙で落選する心配がないことが、批判に対する感度の鈍さの理由でしょう」(同・記者)
広島県西志和村(現・東広島市志和町)に生まれた岸田正記(1895~1961)は、岸田首相にとっては祖父にあたる。
正記は京都帝国大学法学部に進み、在学中に高等文官試験(現・国家公務員採用総合職試験)に合格した。筋金入りの秀才という印象だが、官僚の世界には進まなかった。
家業の不動産業を継ぎ、地元の広島でデパート経営に乗り出す。旧満州でもデパートや不動産会社を経営していた。
2年間の浪人生活
そして1928(昭和3)年に衆議院議員選挙に出馬して初当選。以後、6期連続当選を果たした。
「戦時中に海軍政務次官など内閣の要職を歴任したため、戦後は公職追放となりました。サンフランシスコ平和条約が発効され公職追放が解除されると、1952年の総選挙に立候補し当選しましたが、1期で引退しています」(同・記者)
岸田文武(1926~1992)は戦時中、東京帝国大学法学部に進み、父と同じく在学中に高等文官試験に合格。1949年、商工省(現・経済産業省)に入省し、資源エネルギー庁公益事業部長、貿易局長、中小企業庁長官などを歴任した。
「1979年の総選挙で初当選し、総務政務次官や文部政務次官などを経て、1988年から自民党の経理局長を務めました。入閣を果たしたことは一度もありませんでしたが、いわゆる“縁の下の力持ち”として自民党や政権を支えました」(同・記者)
そして1957年に、岸田首相が生まれた。父親の方針で広島ではなく東京で育てられた。
開成高校を卒業し、東京大学を目指して2年間の浪人生活を経験。最終的には早稲田大学法学部に進んだ。
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