“闘将”星野仙一監督の熱い説得で“断念”も…幻と消えた「日本人メジャーリーガー」

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“メジャー級”の強肩

 1997年オフ、日本人捕手で初めてメジャー移籍を目指したのが、現オリックス監督の中嶋聡である。

 球界ナンバーワンの強肩は“メジャー級”と評され、チームメイトのニールらにも「向こうでも通用するぞ」と太鼓判を押されるうち、「本場でやってみたい」と、その気になった中嶋は10月28日にFA宣言。11月初旬に渡米すると、代理人のアラン・ニーロ氏と合流して、各球団に売り込んだ。

 その後、複数の球団からオファーがあり、最終的に元チームメイトの長谷川滋利が在籍するエンゼルスに絞られたが、守備面での高い評価に対して、打撃面の不安から、マイナー契約を提示され、本人が望むメジャー契約は難航した。

 そして12月19日、エンゼルスとの最終交渉も契約金、年俸合わせて25万ドル(約3175万円)だったことから、「とりあえず1年やってみるという考えもあったけど、これまでの反応も思わしくなく、無理だなと思った」と、ついに米国行きを断念した。

 同21日、「今後は手を挙げてくれている(国内の)2球団と話し合います」と国内残留を表明した中嶋は、西武、日本ハムと交渉の末、西武に移籍した。

 捕手では、横浜時代の谷繁元信も2001年オフにFAでメジャー移籍を目指したが、これまた条件面で折り合いがつかず、メジャーの日本人捕手第1号は、2005年オフの城島健司(マリナーズ)まで待つことになる。

「夢っていうのを、錯覚したらあかんで」

 一方、ポスティングでのメジャー移籍を表明したが、星野仙一監督の熱い説得で残留を決めたのが、阪神時代の川尻哲郎である。

 1995年、ドラフト4位で阪神に入団した川尻は、サイドからの多彩な変化球を武器に、98年5月26日の中日戦でノーヒットノーランを達成。同年オフの日米野球でもMLB選抜を9回1死まで無失点に抑える快投を見せた。

 2000年にもチームトップの10勝を挙げ、低迷期の阪神のエース格だったが、翌01年9月のシーズン中にメジャー移籍を表明。その後、ポスティングでの移籍を認めてほしいと、球団側に訴えると、アスレチックスとカージナルスがコミッショナー事務局に身分照会を求めてきたが、計3度にわたる球団との交渉はもつれ、なかなか決着しなかった。

 そんなゴタゴタが続くなか、12月に野村克也監督が夫人の逮捕問題で電撃辞任すると、後任の星野仙一監督から「待った!」がかかる。「メジャーに移籍したいのなら、FA資格を獲ってから」と考える星野監督は「ルールに則った夢なら、叶えさせてやる。でも、(川尻は)自分のご都合主義だと思う。夢っていうのを、錯覚したらあかんで」と一刀両断にした。

 だが、川尻は年明け後もメジャー使用球で自主トレを行うなど、「3月まで粘る」とメジャー移籍にこだわりつづけた。星野監督も「本人から(会いたいと)連絡がないんだから、こっちから言うのもおかしいやろ」と突き放し、両者ともに平行線を辿っているようにみえたが、その裏で“闘将”は川尻に電話で連絡を取り、大阪で密会するなど、事態収拾に全力を挙げていた。

 これを受ける形で、01年1月28日、川尻は「星野さんの下で熱い野球をやってみたい。小宮山(悟)さんも36歳で行った。それ(FA)を目指してやります」と一転残留を表明した。その後、03年オフにトレードで近鉄に移籍。04年の球界再編時にもメジャー移籍を考えたという川尻だが、結局、夢を実現することなく、楽天移籍1年目の05年限りで現役を終えている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書) 

デイリー新潮編集部

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