“破格の条件”で入団もアッと言う間にクビに…早々と退団した「ドラ1列伝」
「2度とオレの前に姿を見せるな!」
即戦力の先発候補と期待されながら、3年で戦力外になるも、台湾での武者修行を経て、“古巣復帰”という異色の球歴を持つのが、1994年の中日のドラ1・金森隆浩である。
立命大時代に2年連続で日米大学野球代表に選ばれた速球派右腕は、紀田彰一(横浜高→横浜→西武)の「外れ1位」ながら、潜在能力では巨人の逆指名1位・河原純一(駒大)より上とみられていた。
1年目に故障で出遅れた金森は、翌96年10月2日の広島戦、18対5と大きくリードした9回にリリーフとして初めて1軍のマウンドに上がると、「一人ひとりを打ち取ることだけ」を考え、1三振を含む3者凡退でまずまずのデビューを飾った。
ところが、プロ初先発を任された10月9日の阪神戦では、球に切れを欠く苦しい投球のなか、初回に新庄剛志と塩谷和彦に満塁弾を浴び、8失点と大炎上。「1イニングに2本の満塁被弾」は、史上初の珍記録だった。
降板後、星野仙一監督から「これを記念に消えてなくなれ。2度とオレの前に姿を見せるな!」と言い渡された。奮起を促す叱責にも取れるが、これが1軍最後の登板となり、翌97年オフに戦力外通告を受けた。
翌年は球団と交流のある台湾・統一に移籍し、先発、リリーフとして3勝2敗、防御率3.09の成績を残すと、この活躍が認められ、2年ぶりの中日復帰が決まる。だが、99年はチームが11年ぶりリーグ優勝をはたしたにもかかわらず、1軍で1試合も登板できないまま、2度目の戦力外通告を受け、現役を引退している。
わずか2、3年で消えていく「ドラ1組」の一方で、2007年の大学・社会人ドラフトで巨人に1巡目指名された村田透は、3年で戦力外になったあと、米球界挑戦を経て、ドラフト指名から10年後の日本ハム時代にプロ初勝利を挙げた。
このほか、17年の楽天1位・近藤弘樹も3年で自由契約になったが、ヤクルトの育成選手から這い上がり、21年に開幕から14試合連続無失点を記録するなど、期間限定ながらセットアッパーとして活躍した。
こんな“敗者復活劇”が実を結ぶのも、野球の醍醐味と言えるだろう。
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