史上初、2年連続で9回2死から「ノーノー」を逃した“川崎のサブマリン”
村田兆治に代わってエースに
昨季はNPB史上最多タイのシーズン5度のノーヒットノーランが達成された。その一方で、2試合連続完全試合の世界記録達成まであと1イニングで降板したロッテ・佐々木朗希や9回2死から初安打を許したオリックスのドラ1ルーキー・椋木蓮のように、“未遂”で終わった者も相次いだ。【久保田龍雄/ライター】
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“ノーノー未遂”といえば、9回2死から2度ノーヒットノーランを逃し、延長10回に完全試合の夢を断たれた西武・西口文也を思い出すファンも多いだろう。そして、もう一人、史上初の2年連続9回2死からノーヒットノーランを逃すという記録より記憶に残る男が存在した。
男の名は仁科時成。社会人の大倉工業7年目、25歳のとき、「今年プロから指名されなかったら、野球を辞めよう」と決意した直後のドラフトで、ロッテから3位指名を受け、1977年に入団。高校時代に腰を痛めたのを機に、上手から横手、さらに下手にモデルチェンジした独特のフォームから緩急自在の投球で打者を幻惑した。
落ちる球を習得し、投球の幅を広げた80年には、不調の村田兆治に代わってエースを務め、自己最多の17勝。翌81年にも2年連続の二桁13勝を記録した。
だが、82年は9勝14敗と負け越し、翌83年も開幕から2勝5敗となかなか調子が上がらない。5月23日には練習中に打球を避けようとして転び、左肩を強打するアクシデントで2軍落ち。1軍復帰後も先発で5試合連続KOと、負の連鎖が続いた。
スタンドからは「あと一人」コール
そんな出口の見えない苦境下で先発した8月20日の近鉄戦、仁科は初回をいずれも内野ゴロの3者凡退に抑えると、良く切れるスライダーとシュートを効果的に使い、3回までパーフェクトに抑える。5月に痛めた左肩もまったく気にならないほど、調子が良かった。
4回にエラーと四球、6回にもエラーの走者を出したが、いずれも落ち着いて後続を打ち取り、安打を1本も許すことなく、1対0のまま最終回を迎えた。
この間、「危ない球が5、6球あった」そうだが、いずれも安打にならず、「7回を終わって、記録ができるかもと思った」という。
9回も先頭の大石大二郎を遊ゴロ、ハリスを二ゴロに打ち取り、たちまち2死。スタンドの「あと一人」コールを背に、次打者・仲根政裕(本名は正広)をカウント1-2と追い込んだあと、仁科は満を持して、ウイニングショットのシンカーを投じた。
一方、仲根は「8回に逆算したら、オレが最後の打者になるので、その前に誰かヒットを打ってくれと祈っていた。打席に入ったら、もうドキドキ」と緊張しまくりながら、かろうじてバットに当てたが、ファウルチップとなり、万事休したかに見えた。
ところが、捕手・土肥健二がこれをミットに当てて弾いてしまう。間一髪で命拾いした仲根は、もう1球ファウルで粘ったあと、仁科の99球目、シンカーが落ちず、真ん中に入ってくるところを見逃さず、右前に弾き返した。
あと一人で快挙を逃した仁科は「早いうちに打たれておけば、こんなドキドキしなくて済んだのに……。くたびれ損です」とガックリ。次打者・栗橋茂にも四球を与え、2死一、二塁のピンチを招くが、仲根の代走・藤瀬史朗をけん制球で刺し、ゲームセットに漕ぎつけた。“幻のノーノー”にも、「完封できたからいいですよ。またチャンスがあったら、狙いますよ」とさばさばした表情だった。
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