【どうする家康】ざんばら髪に深紅の着物――織田信長のイメージを決定づけた有名エピソードは「作り話」か?

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 大河ドラマ「どうする家康」で、岡田准一さん演じる織田信長が強い存在感を放っている。若かりし頃の回想シーンでは、ざんばら髪に深紅の着物というド派手な出で立ちで登場し、いかにも「大うつけ」「たわけ者」という印象だ。

 ところで、このようにドラマや小説などでよく描かれる「若き信長=うつけ者」というイメージは、どこまで歴史的事実に基づいているのだろうか。

 人気歴史学者・呉座勇一さんは、若者時代の信長のある有名なエピソードを取り上げ、その真偽について考察している。呉座さんの著書『武士とは何か』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けしよう。

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道三は信長をどう評価したか

 若かりし頃の織田信長をめぐる逸話で、最も有名なものは、「美濃のマムシ」の異名をとった斎藤道三(どうさん)との、有名な聖徳寺の会見であろう。正確な開催時期は不明だが、天文(てんぶん)21年(1552)か22年に行われたと考えられている。信長19歳、もしくは20歳の時の出来事ということになる。

 良く知られているように、織田信長の正室は斎藤道三の娘である。信長は道三の娘婿にあたる。

 さて、道三の家臣たちが道三に「婿殿(信長)は大だわけである」と口々に言っていた。道三は「そのように人に言われている者は実際にはたわけではないのだ」と言って取り合わなかったが、あまりに家臣たちがうるさいので、実際に会ってみようと思い、信長に会見を申し入れた。

 道三が提案した会見場所は、美濃・尾張の境界領域にあり中立的立場となっていた富田(現在の愛知県一宮市冨田字大堀)の聖徳寺であった。信長も快諾し、会見が決まった。

 先に会場に到着した道三は、正装の老臣たちを寺の周囲に並べた。信長が奇妙奇天烈な格好をしているといううわさは道三の耳にも入っていたので、信長を周囲から浮かせて笑いものにしようと思ったのである。

 道三は町外れの小屋に忍び込み、信長の行列をひそかにうかがった。信長は毛先を茶筅(ちゃせん)のように散らして湯帷子(ゆかたびら)を袖脱ぎにし、大刀・脇差を荒縄で巻き、腰の周りに火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、虎皮と豹皮の4種の色に染め分けた半袴を着けていた。まさに噂通りの風体であり、道三もあきれたことだろう。

 しかし信長が率いてきた700~800人の家臣たちは、長槍500本、弓・鉄砲を500も装備していた。

 しかも寺に入った信長は屏風を引き回し、その裏で髷(まげ)を直し正装に着替えた。長袴や小刀を家臣たちにも内緒で用意していたのである。信長の家臣たちは「さては日頃のたわけは芝居であったか」と仰天した。

 かくして信長と道三の対面になったが、お互いに知らぬ顔をしてあいさつをしないので、見かねた信長家臣の堀田道空(どうくう)が、「こちらが山城殿(斎藤道三)でございます」と信長に紹介した。すると、信長はあの有名なせりふを吐く。「であるか」。信長は敷居をまたぎ、座敷で道三にあいさつした。二人は湯漬けを食し、盃を交わした。

 一杯食わされた道三は苦虫をかみつぶした表情で「またお会いしましょう」と言って別れた。道三は信長の帰りを見送ったが、道三軍の槍より信長軍の槍の方が長いことに気付き不機嫌になり、何も言わずに帰国した。

 帰途、道三側近の猪子兵介(いのこひょうすけ)(高就〔たかなり〕)は道三の機嫌をとろうと「やはり上総介(信長)はたわけでしたな」と述べた。ところが、道三は「ならば残念なことである。わしの息子たちは、たわけの門外に馬をつなぐことになるだろう」と答えた。これ以降、家臣たちが道三の前で信長を「たわけ」と呼ぶことはなくなった。

 言うまでもなく、信長の門外に馬をつなぐとは、信長の家臣になるということである。斎藤家は織田家の下風に立つことになろう、と道三は嘆息したのである。現実に、道三の孫である斎藤龍興(たつおき)は信長に敗れて美濃を奪われた。道三の予言は見事に的中したことになる。

「英雄、英雄を知る」のか?

 この逸話はいかにもでき過ぎで、作り話めいている。しかし「信長公記(しんちょうこうき)」に収録されているので軽々に退けられない。

 周知のように、「信長公記」は織田信長の側近くに仕えた太田牛一(ぎゅういち)の手になる信長の一代記である。信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を起こした永禄11年(1568)から本能寺の変で命を落とす天正10年(1582)までの15年間を、1年1冊ずつまとめている。

 牛一自身が奥書で「創作はしていない」と宣言しているように、「信長公記」は実録色の強い史料で、信頼性は高い。ただ問題は、前記の逸話が「首巻」に収録されている点である。

 この「首巻」は上洛前の信長の事績をまとめたもので、「信長公記」の伝本の中には「首巻」 を含まないものも複数存在する(「首巻」を伴う牛一の自筆本は確認されていない)。牛一自筆の池田本(岡山大学附属図書館池田家文庫所蔵「信長記」)の奥書には15帖(巻)にまとめたとの記述があり、首巻は後から付け加えられたと思われる。

 事実を淡々と記している本編と異なり、首巻には物語的な面白い話が多く含まれている。私たちにとってなじみ深い信長のうつけ者エピソードのほとんどは、「信長公記」首巻に収録されている。

 この相違は牛一の立場を反映していると考えられている。牛一が信長に近侍するようになったのは桶狭間の戦い前後のようなので、それ以前の信長の事績については伝聞情報に基づいて書いた可能性がある。聖徳寺の会見も、牛一が直接経験したわけではないだろう。全くの虚構とは思えないが、うわさに尾ひれがついた恐れはある。

 しかし歴史研究家の和田裕弘(やすひろ)氏は、猪子兵介は後に信長に仕えているので、牛一は兵介から聞いたのではないかと推測している(『信長公記 戦国覇者の一級史料』中公新書、2018年)。だとすれば、道三の発言は史実である蓋然性が高いということになろう。

 英雄、英雄を知る――この印象的な「名ぜりふ」が実話であってほしいと願うのは、歴史学者として冷静さを欠いているだろうか。

『武士とは何か』より一部を再編集。

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