【どうする家康】なぜ元康は今川義元の人質に?第1話で描かれなかった知っておきたい史実

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なぜ、義元は討たれたのか

 1560年の「桶狭間の戦い」は義元による軍事侵攻だった。約2万5000の大軍を率いて、信長が支配していた尾張国の東部を押さえようとした。信長側の兵力は約3~4000だったとされている。

 元康の一番の役割は大高城(現・名古屋市緑区)に米450俵を運ぶこと。この城は義元の妹婿・鵜殿長照(野間口徹[49])たちが押さえたものの、信長陣営に深く入り込んでおり、周囲は敵だらけだった。

 江戸幕府の公式史書『徳川実記』によると、元康は大高城に米を運び入れるため、深夜を待ち、城から少し離れた信長陣営の砦を攻めた。信長側の兵士たちが、その砦に急行すると、その隙に米を搬送した。

 有名なエピソードだが、脚本を書いている古沢良太氏(49)は採用しなかった。『徳川実記』は徳川家寄りに書かれており、信頼性に疑問符が付く。それも不採用の理由の1つだろう。そもそも大河はドラマなので史書をトレースする必要はない。

 やはり第1話では省略されたが、兵力で圧倒的に勝っていた義元はなぜ信長に討たれたのか。『信長公記』(信長の伝記)によると、信長は作戦会議でも雑談しかせず、家臣たちは「知恵の鏡も曇る」とあきれていた。敗戦ムードが漂っていた。

 その後の1560年5月19日、桶狭間を暴風雨が襲う。ここで信長は義元のいた本隊を正面から一気に攻めた。義元を討ち取ることのみ目指した。味方の大半にも事前に作戦を明かさなかったが、理由は内通者がいたら失敗するからだ。

 信長側は義元本隊に攻め込み、最後は武将・毛利良勝が義元の首を取った。その際、抵抗した義元が良勝の指を噛み切ったとの逸話もある。

 兵力で圧倒していた義元陣営の油断も敗因の1つにほかならない。大高城を押さえ、信長陣営の要所だった丸根砦(名古屋市緑区)と鷲津砦(同)も陥落させたとの知らせを受けると、祝勝ムードが漂い、昼間から酒を飲み始めていた。

 総大将を失った義元陣営は総崩れとなった。これにより、元康の運命は激変する。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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